サムネイル

9999年のゴースト・サマー

ごうごう。

ごうごうごうごう。

轟音の中にわたしはいた。頭の中を直接震わせるような太くて重い音に、頭の中がかき回されるようだった。

頭上の明かりが遠い。まるで別世界にあるみたいに。

目を閉じた。

ひんやりとした冷たさを感じていたのは最初だけで、今はもう、どんな温度も感じない。自分の体温といっしょになって、この小さな容器の中いっぱいにわたしが詰まっているみたいだった。

どこからが腕?

どこまでがお腹?

音は続いていた。ごうごうという音の中──ぷくぷくという泡の音を聞き取ったわたしは、ちょっと想像してみたりする。

暗い部屋の真ん中にある、大ぶりなガラスの容器。満たされた緑色の──何色でもいいけどなるべくいかにも人工的な色の──溶液。そして、その真ん中に浮かんでいる脳みそ。電極がいくつかついていて、それに繋がった機械がぴっぴっと鳴って、それがまだ生きていることを教えてくれる──そんな姿になっても、まだ──

そのうちに大きくて真っ黒いものが迫ってきた。わたしはそれをじっと見つめて、何なのか見極めようとした。たぶんそれは恐怖だ。塗りつぶされるような恐怖。

わたしはぎりぎりまでそれに抗ってみることにした。けれどその気持ちもほどなくして塗りつぶされた。胸の奥がつん、とした瞬間、「もうだめだ」と思った──顔を上げた──水面へ、そして空気の中へ。

「わっ」

わたしをのぞき込むようにヨルさんの顔があった。

「ヨルさん!」

わたしはバスタブの中から息も荒く彼女を見上げていた。

「えっと、なにしてるの?」

あわてて蛇口を閉めた。

「ば、ばすたぶ、バスタブに、潜って、ました」

「あはは、なんで?」

「えっと、」

わたしたちは部屋でだらだらしていた。

わたしはベッドの上で足を伸ばして、ヨルさんはひとりがけの椅子に姿勢を崩して座っていた。

二人とも下着姿だった。普段ならありえないことなのだけれど、どうやら最近暖房機が壊れているらしくて、わたしたちの部屋はいつでも暖房過剰だったのだ。そしてわたしたちは暖かい部屋で着るのにちょうどいい服というものを持ち合わせていなくて、そういうわけで下着姿でうだうだやっているのだった。本当は下着姿でもちょっと暑くて、綿の下着にじんわりと汗がにじむ感覚が気持ち悪くはあるのだけれど、まさか裸でいることはできないし──

アーニャに修理を頼んではいるのだけれど、なんだかパシフィカさんから大きな仕事を任せられているらしくて、修理は少し先になるということだった。

窓の外はいつもと変わらぬ極寒の雪景色だというのに、ここでは下着姿で靴下すら履かないで、足の指でじゃんけんなんかして遊んでいる。その断絶されたような感じはなんだか少し安心するような心地よさもあって、嫌ではない。

アイスクリームでもあったらもっとよかったんだけど。

──なるほど、だから涼もうとしたんだねえ。私てっきり小夜子さんにも治療が必要なんじゃないかなーって」

「大丈夫ですよ。最近、まるで夏みたいに暑いじゃないですか。だからちょっと水浴びがしたくなっただけで……」

「だからってお風呂に潜るなんてふつう考えつかないよ! びっくりしちゃったなあ」

「そうですか? けっこう楽しいですよ。バスタブの底から天井をじーっと見上げてると、こう、水泳気分っていうか、夏ってこうだったなー、って」

「小夜子さんのところでは、夏は水泳ざんまいだったんだね。だから思い出したくて潜ってたんだ」

ヨルさんが、うんうん、と頷く。どうやら納得してくれたようだった。

うーん。

こういうとき、わたしは少し悲しいような、でもどこか活気づくような、胸の奥の痛痒感に駆り立てられる。

こうやっていっしょに住んで、こうやって当然のように話しているヨルさんとわたしだけれど、たとえば今のように『夏と言えば水泳』というような、わたしにとっては無意識と言ってもいいような、そういう常識の基盤を共有していないのだ。

それは、わたしたちがこれからどれだけ絆を深めていったとしても、最後の一センチ、あとほんの少しというところでわかりあえないということなんじゃないか。

「まあ、はい、夏でなくても水泳は流行ってた気がします。だいたい屋内プールだったし。空気が汚れてて外のプールはあんまり使われなかったんだった……気がします、確か」

「うええ、空気が汚いのはいやだね」

「屋内プールはけっこうたくさんあった気がするんです、たぶん流行ってたんじゃないかって」

わたしはいつになく饒舌になっていた。きっとわたしは知って欲しいのだ。わたしの知っている景色を。ヨルさんが知らない景色を。

「水泳ブームかぁ、なんかすごいね」

「プールって気持ちがいいものなんですよ。たっぷり泳いで上がってきて、着替えて休憩室でスポーツドリンクを飲むんです」

これはわたしが知っている景色であるのか、あまり自信がなかった。世間一般のイメージのようなものをただ自分の言葉のように語っているだけだという気もした。どこからどこまでが自分の思い出なのか、自身が持てない。

「なんだか楽しそうだね!」

「ヨルさんもきっと気に入ると思いますよ。この町の幽霊たちも。水泳は健康にもいいですし」

「健康にも? いいことしかないんだねえ」

いいなあ、最近運動不足だもんね。そう言ってヨルさんは伸びをひとつして、椅子の座面から床へと滑り落ちてみせた。

「床、涼しくて気持ちいい……」

「あー、汚いですよもう。ヨルさんもお風呂に潜ってきたらいいんじゃないですか?」

「健康にいいかな?」

「それはわからないですけど。プールじゃないし」

「そっかあ……」

ヨルさんはそのまま床に寝転がって動かなかった。目を閉じて、しきりにこんなふうにつぶやいていた。

「プール……健康……夏……」

わたしの言葉から、彼女なりの夏を、わたしの思い出を想像しようとしているんだろうか。なんだか申し訳なくなって、でも声をかけるほどでもなくて、わたしはなんとなく手持ち無沙汰だった。

「はっ!!!!」

ヨルさんは奇声を上げたと思うと、かっ、と目を見開いて、上半身のばねで身体を起こして「ゆーれか!」と叫んだ。

なんだか面倒なことが始まるのだと思った。

「ちょっと出かけてくるね」

「下着のまま出て行ったらだめですよ」

「しってるよもう」

それから服がどこにあるとかそういういつもありがちなばたばたがあって、ヨルさんは冬の渦巻く外界へ出かけていった。

わたしは夏を思わせる熱気の充満した部屋の中で、今回の騒ぎの被害者へ、静かに黙祷を捧げた。

「あの、もういいですか?」

「まだだよー!」

もう何回目になるかわからないやりとり。わたしは目隠しをされたままヨルさんに手を引かれて町中をどこかに連行される途中だった。

いくら手を引かれているとはいえ、雪の積もった道を目隠ししたまま歩くなんて普通に考えたら9999回はすっ転ぶに違いないのだけれど、あいにくわたしはニンジャだったので問題ないようだった。足ひとつすべらせずに雪の上を歩いていられるのは、わたしの精神のまぬけぶりとはぜんぜん釣り合っていないような気がする。まあ、こういうのにはもう慣れた。

考えている間にも、わたしのつま先は注意深く路面の状況を探り、足腰はベストのバランスを保って決して崩さない。

ふうん。へんなの。

そのうちに、足元から雪の感触が消えた。

「あ、段差があるから気をつけてね。上がったらマットがあるから」

言われるがままに段差を上り、確かにドアマットらしい感触の上で雪を払った。ここはどこなんだろうか。

「もうちょっとだからねー」

なんだか湿ったような臭いのするへんな建物だ。ヨルさんに手を引かれて、また進む。

「ついたよ!」

目の前で重いドアが開く音。同時に、なつかしい匂いがした。

目隠し取るよ、とヨルさんが言った。声にエコーがかかっている。なんで?

「さぷらーいず!」

ヨルさんの声と共に、するりと目隠しが外された。明るさに目をくらませながら、わたしは見た。

その形容しがたい空間を。

「どう!?」

「どうって……これ、プールだ……」

水の抜けたプール。なつかしいと感じた匂いは塩素の匂いだ。

でも、それをすぐにプールだと断定するには、わたしの理性が「待った」をかけた。

普通のプールの天井では太陽を模した大型電球が熱と光をまき散らしてはいないし、壁には頂点の平らな山の絵が一面に描かれてはいない。

不規則なタイミングで空調が、ぶうん、と音を立てて、そよ風を頬に触れさせてくるなんてサービスもなかったと思う。

プールそのものは立派なものだ。プールの面積だけでわたしたちのアパートのフロア一階分に相当するんじゃないだろうか。二階には観覧席まである。参加する者さえいれば競泳の大会を開けるような、ちゃんとした──

それがどうしてこんなことに?

「ちょっと! 話が違うじゃない!」

上から声が降ってくる。驚きと共に見上げると、監視員用のはしごつき椅子の上で、パシフィカさんが身を乗り出して不満を表明していた。

「あなたが『小夜子さんの経験と好みを完璧にリサーチした』って言ってたのよ? でもぜんぜんウケてないじゃない!」

「違う違う、小夜子さんは驚いてるだけなんだよ。ね?」

「えっと、ちょっと事情を聞かせてください、ぜんぜんわからなくて」

「それはだな!」

困惑をそのまま口にしたわたしに、今度は空っぽのプールの底から声とその主が這い上がってきた。

「アーニャ!」

いつも以上に疲弊した様子のアーニャだった。プールから上がるための手すりつきはしごをなんとか上りきって、プールサイドに身を投げ出すように寝転がる。

「ここのスポーツジムからプールを営業再開したいって整備の依頼が来て、それだけじゃどうも収益が見込めないってことでパシフィカがテコ入れで噛んで、ヨルがさらにそれに乗っかったってわけ」

「なるほど」

「本場育ちのあなたが喜ぶ『夏のプール』を作れれば、この町の幽霊たちにきっとウケると思ったの。ただの水泳設備なんて今時流行らないわ」

「ということで、『夏の専門家』さん、もっとよくするところはあるか?」

ははは。

ニンジャの次は、どうやら『夏の専門家』ということになっているらしい。

また勝手に何かになってしまったようだった。本当のわたしは何者でもないのに。

「えっと、全体的に、その──いいと思う──

そんなに嫌な気分はしなかった。普段、ニンジャらしきものでいることによって、わたしと大きなメリットを得ていて、もちろんデメリットもあるわけだけどそれには納得できているというか。

「そうか……! よかった、そう言ってくれてよかった、もうこれ以上直したくない」

「クオリティを妥協するわけにはいかないわ!」

「わかってるけどさ……」

今回も、わたしの友人が楽しんでくれるなら、それでいいと思った。

「他にも気になることがあったら何でも言ってちょうだい!」

さらに言うなら、直感的にこのプールはあんまりうまくいかないだろうとも思っていた。夏っていうのはもっと大きな現象で、プールには再現できないし、再現してうれしいものでもない。これはただのへんなプールで、どういじくり回しても夏にはならない。

つまり、この件はただのたわむれに終わって、別になんの足跡も残さないだろうなと思うのだ。

「ちなみに、DJブースは必要か?」

ふふふ、と、思わず笑いが漏れた。ひとしきり笑ってから答える。

「そんなプールを見たことはないけど、あったらいいかもね」

「よっしゃあ!」

「ちょっとクラブっぽい感じになるわけね。そうすると……スポーツドリンクしか用意してないわ! もっといろいろあったほうがいいわよね!?」

パシフィカさんとアーニャは時々よりは多いけれどしばしばよりは少ない頻度で、こうしてタッグを組んで何かの仕事をすることがある。その話を聞くことも多いのだけど、いつも二人は〝楽しそうに苦しんで〟いて、ちょっとうらやましく思っていた。

今回は、その〝楽しい苦しみ〟に、少しだけ関わることができるそうで、わたしはちょっとだけわくわくしていた。

「あっ、でも飲み過ぎてプールの中でおしっこするひとが出るとやだね!」

「そういうこと言うなよな」

「おぞましい! おぞましすぎて考えもしなかったわ! そんなの大問題よ!」

「小夜子さんのプールではおしっこしたひとはどうなってたの? ウチクビゴクモン?」

「えーと……まずそんなひとがいたかな……」

「ちわー! パシフィカいるー?」

四人揃って早くもごちゃごちゃし始めたわたしたちの会話は、不意の呼びかけによって中断した。

声はプールの入り口のドアの方から。ハスキーだけどどこか温かみのあるトーンには覚えがあった。

「ロゥ! あなたねえ、遅れるなら遅れるって連絡をするのが筋じゃないの!?」

ロゥさんだ。前に仕事を見付けようとしたときにコスプレショップで面倒を見てくれたお姉さん。何か布状のものを山と積んだ台車を引いていた。

「あー、つまり、遅れるって連絡も遅れることもあるんじゃない?」

「ちっとも良くない!  ……まあいいわ。じゃあエントランスにテープで印をしておいたから、そのスペースでやりくりしてちょうだい」

「りょーかい」

台車を反転させてエントランスの方(だと思う、だって目隠しをされていたのだ)に向かうロゥさんの背中を見送りつつ、わたしはパシフィカさんにたずねた。

「ロゥさんと友達だったんですね」

「友達ってほどじゃないわ。彼女とは主にビジネスの関係ね。プールで泳ぐためには水着が必要でしょ? 水着を扱ってるのなんてあの店くらいだから、今回はいい関係が作れるんじゃないかと思って声をかけたの。悪い幽霊ではないけど……困った子よね」

そっか。プールの工事をする幽霊や水着を用意する幽霊や、ドリンクを手配する幽霊、それから、このプールの経営者も。いろんな幽霊が関わって動いている計画なんだ。 

そう思うと、きっと流行らないぞと思いながら平気な顔でここに立っているのが申し訳なくなってきた。

でも、わたしがここで何か言っても、流行るようにコーディネートできるわけでもないし、中止にしたほうがいいと説き伏せる自信もない。

だからせめて、意見を求められたら精一杯応えて、失敗したときはみんなといっしょに思い切り悲しむようにしようと思う。

「よしっ」

気持ちが固まったら少し気分が楽になった。

夏はまだこの世界のどこかにあるんだろうか。常冬のこの町の間反対のような常夏の町があって、そこでは幽霊たちが冷凍庫を改造して冬を再現していたりして。

だったらおもしろいよね。

空調ファンが生み出す偽のそよ風の中で、にせものの太陽を見上げながら、わたしはそんなことを考えていた。

それからしばらくして、プールのリニューアルオープン当日。

プールを埋め尽くす幽霊たちのはしゃぎ声の中で、わたしはぼうぜんとつぶやいた。

「そんなばかな……」

『夏の専門家監修・夏再現リゾートプール』には、どうやら需要があったみたいだ。

プールというプールは水とたわむれる幽霊で早くも満員状態、人工の太陽もどきの下では、普段は厚着に身を包んだ幽霊たちが肌もあらわにはしゃぎ回っている。

まだオープンから半日も経っていないというのに、すごい入りだ。

どうせ空いているだろうし少し泳げるかな、なんて思っていたけれど、これはちょっと無理だ。水着を着てくる必要はなかったかもしれない。

「やっぱりわたしって商売の才能ないんだなあ……」

そもそもここの出身ではないわたしがこの町の隠れた需要を感じ取ること自体、無理な話なのかもしれなかった。

考えても仕方のないことなので、代わりにひとつ伸びをしてから、パラソルの下のプールサイドチェアに寝転がった。吹き抜けるそよ風が心地いい。Tシャツの下にはロゥさんに選ばせてもらったスポーツ用水着しか着ていないから、快適なものだった。

これだけ満員だと一般用のチェアはことごとく埋まってしまっているけれど、わたしがいるのはパーティションポールで区切られた『重要人物ゾーン』で、一般客は入ってはいけない決まりになっていたから、快適なものだ。

わたしは相変わらず『夏の専門家』ということになっていて、このプールの仕掛け人のひとりということになっていた。『重要人物ゾーン』には現在わたししかおらず、他の発起人たちはそれぞれのビジネスか、あるいは楽しみに精を出しているんだろう。

すごい、ひとつのアイデアでみんなが幸せになった。

やっぱりパシフィカさんはすごいな、と思いながら、わたしは起き上がると、チェアのかたわらの『重要人物クーラーボックス』から適当な瓶ジュースを探し当て、それが栓抜きの必要なタイプの瓶であるということに気付く。ということは──あった。箱の底の方に栓抜きが転がっている。

この尖っているところを王冠の内側に引っかけるんだよね……?

「ヘイ、貸してみ」

いつの間にかロゥさんがいた。水着の上からスタッフ用のシャツを着た夏の装いがまぶしい。

わたしは素直に瓶と栓抜きを手渡した。呼吸をするみたいに簡単に王冠を瓶の口からひっぺがしたロゥさんは、自分もクーラーボックスから飲み物を出して、これもまた鮮やかに栓を抜くと、わたしの分のジュースと栓抜きを返して、「かんぱい」と言った。

「か、かんぱい」

瓶の先を、かちん、と合わせて、それから冷たいジュースを一気に飲み干した。甘みと酸味が水分に乗って細胞(そんなものがあるとして)の隅々まで染み渡っていくようだった。

「うーん、うまい。最高! このプールめちゃくちゃよくできてるね? ニンジャちゃんのアイデアだって聞いたけど」

空いているチェアのひとつに腰掛け、白いシャツに汗をにじませながらロゥさんが言う。

「ええ、まあ、ほんの少しだけ……あ、そもそも、お久しぶりです」

「なに? ああ、話すのけっこう久しぶりだよね。同じアパートに住んでるのに。案外そういうもんなのかもしれないけどさ」

「水着の販売はもういいんですか?」

「ああ、だいぶ稼がせてもらったよ。ショバ代払っても余裕なくらい。まー、自分の日当は変わらないんだけどね。だからちょっと休憩したっていいと思わない?」

「ちょっと! 何が休憩よ! まだお客さんがたくさんいるじゃない!」

パーティションポールの向こうで水着姿のパシフィカさんが怒声を上げていた。

オフショルダーのトップスにパレオつきボトムの、適度に大人っぽく、でも華やかさも忘れていない、とてもパシフィカさんらしいセンスを感じる選択。少し彩度の低めの赤色が、パシフィカさんの白い肌、そして金色の髪とよく映えていて、激怒さえしていなければ、その光景は一枚の絵画のようになるはずだった。

「おっと……これもらっていい?」

クーラーボックスから新しく取り出した瓶を指指すロゥさん。わたしはこくこくと頷いた。頷いたときにはもうロゥさんは半分くらい立ち上がっていた。

「そういうことをされると困るの! それにあなたは『重要人物ゾーン』には立ち入り禁止よ。重要人物じゃないから」

「ははは、了解──じゃあまた、『夏アドバイザーニンジャちゃん』」

ひょうひょうとした様子で退散するロゥさんの代わりに、パシフィカさんがゾーンに入ってきた。

「こういうことがあるから私は従業員を雇わないのよ……まあいいわ。小夜子ちゃん、楽しんでる?」

「ええ、まあ、けっこう……とても。本当大人気ですね。いろんな幽霊が来てて」

「そうね……あれとか?」

パシフィカさんが思わせぶりに視線を向けたその先。ごった返す幽霊たちの切れ間に、確かに見えた。

競泳水着を着てぴょこぴょこと跳ねる、可愛らしいブロンドの少女が。

「わああああ、すごい! すごいです! こんなの見たことない! すてきですね! こんなすてきなところに来られて、クラーラ、しあわせですっ!」

「ゲェーッ」

わたしたちの生活を著しく不快せしめる少女、クラーラ。そのわりにわたしたちにはへんな縁があって、ちょっと油断するといろんなところからわいてきて、わたしたちを残念な気持ちにさせる、油断ならない存在。

両手をいっぱいに広げて、光と風を全身に感じている。とても心地よさそうな表情は、写真を撮ればそのままプールの宣伝用ポスターに使えそうだ。となりには数人程度の中年女性のつきそいがいて、楽しそうなクラーラを慈愛に満ちた目で眺めていた。

そうか、楽しいプールだもの、いろいろなことに興味津々で、活発に何にでも挑戦するクラーラが興味を持たないわけもないか。

「でも、教会の幽霊がこんなところ来ていいんですか?」

「よくはないわ。難しいんだけど……悪くもないことになっているの。これがレストランだったらわからないけど。この町って退屈でしょ? 娯楽関係だけはその線引きがゆるいとこあるのよね」

そうなんだ。確かに、つきそいと思しき女性たちも罪悪感を抱いている様子ではないな、と、ぼうっと観察していた。

それがいけなかった。

油断していたのだ。

「あっ!!! ニンジャさん!!!!」

わたしたちを隔てるお客たちの身体のわずかな隙間から、クラーラの瞳がわたしの姿をとらえ、そしてきらりと光ったのが見えた。

しまった。最初に姿を隠しておくべきだった。けれど、もう遅かった。

「わあ! ニンジャさん!」

「クラーラ! プールサイドを走らないで! ライフセーバーはどこに行ったのよ……」

「おーい、ニンジャさん! ニンジャさんも来てたんですね! このプールとってもすてきですね! いっしょに泳ぎましょう!」

幽霊たちの間を縫って、何度もぶつかりながらぴょんぴょんと近づいてくるクラーラ。絶望的な光景だった。逃げようにもクラーラは偶然にもプールの出入り口を背にするような方向からわたしに向かってきており、事実上、退路は塞がれていた。

「わぁ! パシフィカさんもおそろいで! ごきげんよう!」

「ごきげんよう。何度でも言うけどプールサイドを走らないで。あとこっち側は関係者以外立ち入り禁止だから入って来ないこと」

「はーい! お二人は関係者なんですね! すごいです!」

パシフィカさんの拒絶も全く意に介さない様子で目を輝かせるこの不快の塊を、今すぐにでもプールの真ん中に放り投げてやりたかったけれど、さすがにそれははばかられた。

だから、こういう風にするのはどうかと考えた。

「ねえクラーラ。さっき、泳ぎましょうって言ってたよね?」

「はいっ、プールですから! どれも大人用のプールで深いって聞きましたけど、クラーラも少しなら泳げるのできっと大丈夫です」

「そっか、それはすごいね。でも、普通に泳ぐだけじゃつまらないから、ゲームをしようって言ったらどうかな?」

パシフィカさんが、「何言ってんの?」という視線をわたしに向ける。大丈夫ですよ、とアイコンタクトを返す。

「ゲーム! クラーラ、ゲームは大好きです! あ、でも、ビデオゲームは別です。脳に悪いんです」

「そっかそっか。プールの端から端まで競争して、負けたほうは勝ったほうのお願いをひとつ聞くの」

パシフィカさんがぽん、と手を叩いた。わたしのやりたいことに気付いたようだ。

「わあ、楽しそう!」

「じゃあ決まり」

クラーラはばかだ、と思った。普段から賢くはないけれど、いつもよりもばかになっている気がした。何も考えずに、目の前の楽しみにだけ酔っ払っているというか。

だって、トランポリンもバネつきシューズもなしに二階まで飛び上がるニンジャに、水泳で勝てるなんて、普通に考えてありえない。

あるいは、クラーラはわかってやっているのかもしれない。とにかく何かしたいといううきうきを、このように発散するしかないのかもしれない。

夏の魔力。

そんな言葉がわたしの脳裏をよぎった。

わたしもその魔力にかかっていない証拠はどこにもないけれど。  

それから、このばかげた競泳のために場所をちょっと空けてもらう交渉をパシフィカさんがして(パシフィカさんにお礼を言うと「あの子を追っ払えるならこれくらい安い労力よ」と言ってくれた。パシフィカさんはいつも最高だ)、ものの数分後にはクラーラとわたしは隣り合ったレーンの飛び込み台に立っていた。

眼下で水が揺れていた。飛び込み台ってけっこう高いんだ。このプールで泳ぐのは初めてだった。成人男性でも足がつかないくらいに底の深いプールだったけれど、恐怖はなかった。プールの中の青い世界をすいすいと泳ぐ自分がイメージできている。

負けるはずがない。

パシフィカさんが合図の係だった。

「位置について、よーい、」

どん。

わたしは元気よく飛び込み台を蹴って、水の中に飛び込んだ。

「ごえぼがぼぐげぼげぼ」

それから先のことはほとんど覚えていない。

覚えているのは、動かない身体と、どんどん口の中に流れ込んでくる水と、苦しさ、それから──

『プールの中でおしっこするひとが出るとやだね!』

ヨルさんのおぞましい想像が本当だったら嫌だなあ、と思ったこと、くらいだった。

「やられた……」

その一言を絞り出すのに、だいぶ時間がかかった。もう少し早く意識は目覚めていたのだけれど、身体がそれに追いつかない。

寝起きのそれとは明らかに質の違う、重く苦しい、神経をきしませるような倦怠感。

「あ、起きた。大丈夫か?」

「んー、うん」

アーニャの声がした。近くだ。ということは視界が真っ暗なのはわたしが目を閉じているせいなんだな。

まぶたをなんとか持ち上げると、ひどくぼやけた夕焼け空があった。しばらく見つめていると視界には少しずつ明瞭さが戻ってきて、夕焼け空を演出しているのはオレンジ色に調光された例の太陽もどきで、わたしが見上げているのはプールの天井だということがはっきりしてきた。

誰が服を着せてくれたみたいで、水着の上に一枚、布がかぶさっている感触が心強かった。寝ているのはたぶん、背をすっかり倒したプールサイドチェア。頭痛に顔をしかめながら横を向くと、となりのチェアでヨルさんがひかえめなビキニ姿で眠っていた。

「さっきまで起きてたんだけどな」

わたしが顔を向けたのとは逆方向から、アーニャの声がした。痛みに耐えながら、たっぷり何秒か時間をかけて首を回すと、Tシャツに短パン姿のアーニャがチェアに腰掛けて瓶ジュースを飲んでいた。

「あたまいたいから、ねてたほうがうれしい」

「ははっ、そうかもな。マジでだいじょぶ?」

どうしてこんなことになったんだっけ。

クラーラと競争しようとして溺れたんだ。泳げるつもりで飛び込みを決めて、水に入るとぜんぜん身体が動かなくなって。

きっとあのあと助けられたんだ。死んでしまう前に。ゴミ捨て場じゃなくてプールサイドで目覚めたのはそういうわけだ。

自分が泳げないなんて、想像だにしていなかったのだ。

泳ぎ方は知っている。脚で、腕で水を押しのけて身体を前に進めてゆく感覚を知っている。クロールの息継ぎのときに鼻に水が入る、あの嫌な感じを鮮明に思い出せる。

でも、実際にはバタ足すら覚束なかった。水に入った途端、わたしは先に述べたような記憶を一気に失ってしまったように、ただ水に沈むまいと手足をばたつかせることしかできなくなって、そしてその悪あがきすらうまくできなくなる。

挫折感。

敗北感。

わたしは負けたのだ。よりによってあのクラーラに。

「まあお客もピーピーうるさいのも帰したからさ、ゆっくりしたらいいじゃん」

「……クラーラ」

他の幽霊ならいざ知らず、あのクラーラに。

「大丈夫、あいつも帰したよ」

できることならもう一度、意識を失ってしまいたかった。けれど、クラーラに負けたのだという事実を意識すればするほど、悔しさと怒り、そして絶望がわたしの目を冴えさせてしまうのだ。

「クラーラは何か言ってた?」

「いや、何も言ってなかったよ」

「クラーラが何も言ってないわけないよ」

「そりゃあ、何か意味のあることは言ってなかったって意味だ。それに、知ったところでお前さんの気分がよくなるのか?」

アーニャの反応で確信した。何も言わなかったなんてことは絶対になかったのだ。

「ううん、ぜったい悪くなる」

「自分から気分悪くなりにいくなんてヘンだろ!」

「でも聞かないなんてできない!」

自分の大声で収まりかけていた頭痛が再発した。でも、アーニャにわたしの気持ちが通じたようだから、これは貴い犠牲だった。

「まあ、気持ちはわかるけどさ……でもアタシだって一言一句覚えてるわけじゃないし……!」

「いいから!」

「はい」

アーニャは諦めたようにため息をついてから、瓶の中身を一気に空けた。そして、肩をすくめて「どうぞ?」のサイン。

「勝負については?」

「『クラーラの勝ちですねっ!』」

「どう思ったって?」

「『ニンジャさんが助かってほんとうによかったです!!!』」

「わたしのことはどう思ったって?」

「『ニンジャさんにも勝てない勝負に挑むような一面があるんだって知れてよかったです!』」

「今後の見通しについては?」

「『また遊びに来ますから、こんどは十分練習してクラーラに挑戦してくださいねっ!』」

「他には?」

「とくにない」

「やろう、ぶっころしてやる」

「ほらあ! だからそうなるって言ったじゃん、無駄に怒ったってしょうがないんだよ」

アーニャは、あーもう、とぼやきながら、足元のケースから、またあたらしい瓶を取り出す。

「うん、聞かせてくれてありがとうね、アーニャ。あとクラーラの声まねすごくうまかったよ」

「あとでネタにすんの絶対禁止だからな」

でも、これは必要な怒りだから。

おかげで、チェアから体を起こして、それから自分の足で立ち上がる気力を引き出すための燃料になった。

よっこいしょ。

チェアに片手を突きながら、慎重に体重を二本の足に移した。そして一歩──ちょっとよろけたけどそれは別に大丈夫なよろけ方で──二歩目からはいつも通りの安定した足取りになった。

こんなのは間違っているんだ。

ほんとうのわたしはこんなじゃない。

プールの際まで歩み寄って、オレンジ色の光に揺れる水面を眺めながら、わたしは決意を改めて思う。

「……泳いでみせる」

そう。できるんだ。

「ちょっと勘がにぶってただけ。わたしは泳げる。ううん、いま泳げないとしても、絶対泳げるようになって見返してやる」

「その言葉に偽りはないわね!?」

よく知った声に振り向くと、空調が吐き出す微風に髪をそよがせながら、パシフィカさんが仁王立ちしていた。

「私でよければ助けになるわ。アーニャが何かを教えられるとは思わないし。女友達に隠れてこそこそ男を作る方法以外」

「おい! やめろや」

抗議の声を上げるアーニャを一瞥してから、パシフィカさんはわたしのとなりに立った。そしてパレオを外して放り投げると、おもむろにプールに飛び込んでみせた。瓶一本投げ入れたみたいにちんまりとしか上がらない水飛沫は、パシフィカさんの持つ飛び込みの技術の高さを物語っていた。

「これでも水泳には少しだけ自信があるのよ。久しぶりだけれど」

水面に顔を出してはにかむパシフィカさんを見ていると、なんだかうれしくなった。やっぱりパシフィカさんは最高だった。近くにいるだけで勇気が充填される。

「あなたならできる!」

「はい! そもそもニンジャなのに水泳ができないなんておかしい!」

「そうよ、常識的に考えてできないわけがないわ! 来なさい! 小夜子ちゃん!」

「はいっ!」

パシフィカさんをまねてフォームを作った。体のばねを可能な限りしなやかに使って、プールサイドの床を蹴る。これはうまくいった。我ながらさすがニンジャだった。飛び込みには角度が重要だ。さもなくば胸やお腹から着水して、盛大に水飛沫を上げることになる。でも、そんな心配はわたしには関係のないことだ。思い描いたのと寸分違わぬ最高の角度。指先、腕、頭、順番通りに水の中に潜り込んでいって──

「あぼがべべべべぼぼぼぼ」

「小夜子ちゃあん!」

「いいぞお、パシフィカ先生! 教えるのがお上手でいらっしゃるかもだ!」

「野次ってる場合なので!?」

一体どういうことなんだろう。

水の中で必至に酸素を求めてもがきながら、頭の中の冷静な部分があてもなく問いかけ続けていた。

自分じゃない自分が自分を泳げなくしている。

そうだ、あれと似ている。あれはできることを増やすものだから真逆だけれど、起きているのは同じことだ──あれと──ニンジャと──

「ふぅ」

地獄のような練習が終わって、わたしはひとり、ロッカールームで着替えをしていた。

ロッカールームは静かで、着替える手を止めれば自分の呼吸の音さえ聞き取れそうだった。耳の奥がわんわんと鳴っている。

ニンジャの体力をもってしてもぬぐいがたい疲労感が、体にかかる重力を十倍くらいに感じさせていた。溺れ死にかけてからもう一回水に入って何時間も練習していれば誰だってそうなるのかもしれない。帰ったら十秒以内に眠ってしまうだろうなと思った。

しかし、その甲斐はあったと思う。

結果から言うと、わたしの水泳技術は多少の改善を見た。既に知っているけれど知らないのと同じになっている水泳を習い直すというのは不思議な体験だった。勝手にインストールされた泳げないわたしを、本当のわたしで少しずつ上書きしていくような感じ。

パシフィカさんが辛抱強く指導してくれたおかげで、水に沈まないことと犬かきくらいはできるようになった。

やっと服を着終えて、いつもの格好になった。あとは、まだ眠っているヨルさんを起こさないと。

わたしが自分に割り当てられたロッカーの扉を閉めるのと同時に、ロッカールームのドアが開いた。

「ヨルさん。起きたんですね」

「小夜子さん、元気になったんだね」

わたしはもうすっかり元気になったことと、クラーラを打倒するために水泳の練習をしていることを伝えた。それを聞いてヨルさんは嬉しそうに頷いてみせてから、自分のロッカーを開け、その中からバッグ──と、中にぎゅうぎゅうに詰まった紙幣と硬貨──をわたしに見せて、ドリンクの利益率ってすごいよ、と言った。

「飲み物売ってたんですか?」

「精神分析とセットでね。でも途中からドリンクだけ売った方がいいって気付いたからあしたからはドリンク専門にするんだ」

「ヨルさんが楽しそうでよかったです」

「練習はどうだった?」

「犬かきくらいはできるようになりました、おかげさまで」

「さっすが小夜子さん! クラーラは犬かきだったってロゥが言ってたから、さっそく互角だよ!」

「そうなんですか」

「私は見てなかったからわからないんだけど。いまやったらもう勝てるんじゃない?」

確かに。あの子は運動できそうに見えないし。希望が見えてきたかもしれない。あと数日もあればきっと追い抜ける。

でも、裏を返せば、わたしはそんな相手に敗北を喫したのだ、しかも大勢の前で。さぞまぬけに見えただろうな、と思うと、少しだけ膨らんできた気持ちがまたしぼんでゆく。

「小夜子さん……だいじょうぶ? ごめんね、私が巻き込まなかったらよかった。あんまり楽しくなさそうに見えるから」

「ううん、そんなことないです。確かに楽しいとは違うけど──夏っぽい感じがします」

ヨルさんの言う通り、わたしはたぶん、楽しい気持ちでここにいるわけではない。怒っているし、疲れているし、後悔もしている。でも、この気持ちにはなつかしい手触りがあった。

「急に始まった何かを、やるぞーっ、て頑張る感じとか、ちょっとわくわくする感じとか。それから、塩素の匂いも」

「そっか」

ヨルさんは短く相づちを打ってから続けた。

「私はね、小夜子さんが楽しんでくれたらいいなって思って。小夜子さんが喜んでくれたら他はうんこみたいなおまけだから」

「そっか」

今度はわたしがそう言う番だった。

「ありがとうございます」

確かにありがたいんだけど、わたしが伝えたいことは本当そんなことなのだろうか。違う気がした。

本当はもっと適切な言葉があるに違いないと思ったのだけど、わたしはついにそれを見つけることができなかった。

おかしいと思っていた。

プールのロビーに入った途端、たむろしていた幽霊たちから歓声を浴びたときから。

一般の更衣室とは別に、『ニンジャ専用更衣室』なんてものが用意されていると聞いたときから。

なんで?とは聞けなかった。それは明らかに異常なことで、たぶんろくでもないことが起きているというのはまず間違いなかった。

どうせろくでもないことになるのは避けられないとして、でもその瞬間をひとりで迎えるなんてごめんだった。だから、わたしよりも先に来てドリンクを売っているヨルさんと一刻も早く合流するべきだと思った。

きのうと同じ水着に着替えて、練習は終業後からだから今は水着の上からシャツを着て、ヨルさんがいるであろうプールに足を踏み入れた。

扉を開けて、まずわたしの目に飛び込んできたものは、

【ニンジャ対シスター・クラーラ 水泳対決】

そう書かれた垂れ幕だった。

こういうわけだったのか、と思うのと同時に、歓声が上がった。きのうまで休憩スペースだったところに、急ごしらえの観覧スペースができあがっている。最初からある観覧席は、もうすでにいっぱいだった。

「ご到着か! 今日は期待してるぜ!」

知らない幽霊に、背中をぽんと叩かれた。不快さよりも前に、きょう対決なんてめちゃくちゃなスケジュールだなと突っ込みを入れずにはいられなかった。敗北して次の日にリベンジマッチって、少し短気すぎはしないだろうか。

ヨルさんのドリンク屋台にたどりつくまで、声を掛けられたり、握手を求められたり、そういうことがたくさんあって、ヨルさんがやっとわたしに気付いてくれたときには、わたしはもうどっと疲れ切っていた。

「小夜子さん、さっそくリベンジするってほんと?」

ヨルさんは【休憩中】の札を出すと、屋台から出てきてわたしの手を握った。長蛇の列を作った幽霊たちから一斉に非難の声が上がるが、ヨルさんはそれを意に介すつもりはないようだった。

「そんなわけないですよ、誰がそんなこと言ってたんですか」

「ここのオーナーさん。きのう練習してたのを見てたんだと思うんだけど、やっぱり小夜子さんから許可取ってなかったんだねえ、やるなあ」

「やるなあ、じゃないですよ、まだぜんぜん練習できてないのに。それに、さっきからヘンなんです。すごく──応援されるっていうか──

「あはは、〝お楽しみチケット〟になっちゃってるしね」

「お楽しみチケット?」

「えっとね、つまり……ギャンブルだよ。小夜子ちゃんとクラーラ、どっちが勝つか賭けてるんだ」

「賭け!? 賭けってあの賭けですか!?」

「掛け売りの掛けじゃあないっ」

なんというか、みんなあまりにも考えなしだ。浮かれすぎている。勢いだけというか。何か変わったことをしたくて仕方がない、しなければならない、という焦りを感じる。

この町は確かに娯楽に乏しいところで、だから潜在的に遊びの需要が高い。でも遊び慣れているわけじゃないから、イベントごとの開催もこうして性急で弾丸みたいな感じなんじゃないかな──と、パシフィカさんならそう言うかもしれないぞ、と思った。

「よーう! おーい!」

聞き覚えのあるハスキーな声に振り向くと、ロゥさんがいた。普段からどこかひょうひょうとしたクールな印象を崩さない彼女だけれど、きょうは顔面全体にしまりがなくて、もしかして何か『お菓子』でも食べてきたのかという風に思った。

「やー、ニンジャちゃん、お姉さん、ほんとにすごいと思うよ、その挑戦しようという気持ち……冒険心? 挑戦心? なんかそういうやつよ、とにかく! 本当ありがとう!」

「何がありがとうなんですか?」

「二割」

「だからええと、ぜんぜんわからないです」

「勝っても負けても、二割は二人のものにして。ニンジャちゃんもヨルちゃんもあたしの最高のご近所さんだし、そもそも、二人がいないとこのチャンスはなかったんだし。昨日の勝負の目撃者がいるからオッズは少しクラーラ有利だけど、あたしはもちろんニンジャ・ガールが勝つって思っているよ」

延々としゃべり続けるロゥさんの話を聞き流しながら、ヨルさんにそっと耳打ちした。

「ロゥさんが胴元なんだ」

ヨルさんがこっくりとうなずく。

なるほど。

まあ、知らないひととか教会が裏で胴元をやっているよりはいい。そういう言い方もできるけれど。

でも。

「ずっと薄給で働いてきたんだし、たまにはいいことあってもいいよね? これで儲けたお金でピアノのメンテをして、壁に防音材も貼って、スコアもたくさん買えるんだ! あっはっはっは!」

ちょっとばかり話が大きすぎるのではないか。

手に負えない。

気がつけば、わたしはプールサイドを駆け出していた。

「プールサイドを走らないで」って? それならこっちは「わたしを勝手に賭けの対象にしないで!」だ!

「あっ小夜子さん! ちょっと待ってよー!」

駆け込んだ先は『ニンジャ専用更衣室』。幸いにも、誰もいないようだった。

勝負はいつ始まることになるんだろう。そうしたらここにも迎えがくるだろうな。そうしたらまた逃げないといけない。いや、このままここにいれば勝手に中止に──いやだめだ、不戦敗になってしまう──それは嫌だ。

ああもう、どうしたらいいんだろう。

更衣室のドアが音を立てて開いた。とっさに身構えるわたしに「私たちよ」──パシフィカさんとアーニャだ。

「ごめん、止められなかった。あのオーナーは何もわかっちゃいないのよ。こういう興業はもっと文化として浸透してからやるべきだわ。一過性のブームにしかならないし──そもそも、ギャンブルにするなんて言語道断だわ!」

パシフィカさんがわたしをぎゅっと抱きしめた。それだけでわたしはちょっと泣きそうになる。

何歩か離れて立つアーニャが、真剣な面持ちで言った。

「だから考えたんだ。このプールのジェネレーターをオーバーロードさせればいろいろ爆発する。爆発しちまえば勝負しないで済むと思う。儲かった金額以上に賠償金取られると思うけど、うまく事故ってことにすればいいんだ……」

「聞いてるかも知れないけど、ロゥのことは気にしなくていいわ。あの子の給料が安いのはそもそもさぼってばかりだからって話だし……」

欲求に忠実なことを言えば、パシフィカさんの腕の中でめそめそしていたかった。めそめそしている間に二人がなんとかしてくれて、たくさんお礼を言って、それはそれでわたしたちの友情のあかしというか、大事な思い出になる。

でも、そんなのはわたしではない。

少なくとも、わたしが望むわたしは、そんな風に二人に甘えるなんてことはできない。

パシフィカさんの背中に回した手で、背中をぽんぽんと叩いた。パシフィカさんが抱擁を解いて、わたしの瞳をのぞき込む。

「わたし、やります」

「……やるのね。いいの?」

「はい。できると思います。逃げててもしょうがないです。二人の世話になるのが嫌なんじゃなくて、わたしがやりたいんです。きっと勝てます。パシフィカさんの教え方も、とってもよかったし」

「ええ。私の生徒はみんな優秀よ。教えている私が優秀なんだから、絶対にそうなのよ。勝てるわ」

「マジでやんのか、小夜子」

「うん、やる。だってクラーラ相手に逃げ出すなんて、ちょっとダサすぎるよ」

「ん……そうだな。わかった。じゃあ、勝負のとき、小夜子の好きって言ってた曲流すよ。それくらいしかできんけど、ええと、ガンバレ」

それからしばらくして、ロゥさんが時間を告げにわたしを呼びにきた。開いたドアの隙間から、プールの暖気と塩素の匂いが──夏の匂い──が入ってきた。でもそれはにせもので、どちらかというと残り香みたいなもので、それはちょうどわたしたち幽霊と似ていた。

飛び込み台の上に立ったときも、わたしは冷静だった。クラーラの方こそ、平静ではない様子でそわそわしていた。やっぱり彼女なりに思うところがあるのだろう。教会側の幽霊はみんな彼女に期待をかけているはずで、彼女はそれに応えようとするタイプだろうから。

『位置について』

拡声器越しのロゥさんの声。わたしもクラーラも、飛び込みの姿勢を取る。

プールは静まり返っている。きのうと違って、この勝負のために他のプールもすべて貸し切られていた。急ごしらえの観客席にすし詰めになった幽霊たち全員が、わたしたちに負けず劣らず神経を張り詰めさせているのがわかった。

場内放送用のスピーカーから、音楽が流れ始めた。イントロでわかる。わたしが好きだと言った曲。大昔風のクラブ音楽をちょっと現代風にした、軽快で心地のいいリズム。

そして、ピストルの音。

わたしは飛び込みの構えを解くと、足先からゆっくりと、グラスのジュースに氷を入れるみたいに、ていねいに入水した。見栄えはよくないけれど、わたしの技術ではどうせ頭から飛び込んだって浮き上がってくるのに一苦労するだけなのだから。

これも作戦だ。体力は温存しないと。

横では、クラーラが飛び込んで盛大に水飛沫を上げていた。でも、すぐに上がってくる。なかなかガッツがあるじゃないか。

わたしたちはほとんど横並びで、のろのろと犬かきでプールを縦断していく。

相変わらず体は重く、ときおり盛大に水を飲む。吐きそうになるけれど、それよりも息を吸うことに必死で。

たまにクラーラの方を見るに、あちらも同じようなものらしかった。

スピード感のかけらもない勝負だった。もう三十分は泳いでいるような気がするけれど、まだコースの半分も泳ぎ切っていないようだった。

耳元で水がざぼざぼと音を立てるのに混じって、いいぞとかそこだとか踏ん張れとか、教会の底力を見せるのだとか、熱い声援が送られてくる。犬かきに「そこだ」も「威信」もあるのだろうか。

それがなんだかおもしろくて、ぎりぎりで息をしている状態のくせに、ぷっと吹き出してしまった。その拍子にまた水を飲んだ。見られたかな、とクラーラの方に目をやる。わたしの視線に気付いたと思しきクラーラもあはは、と笑おうとして、そしてその口に水が流れ込んだようだった。それからというもの、わたしたちは懲りて自分の手足をばたつかせることに集中した。

まったく。なんて夏だ。

長い旅をして、コースの半分まで到達した。コースロープの色がここだけ違うので、泳ぎながらでもわかるようになっているのだ。まだ半分か、とうんざりしながら、クラーラの方を見た。横にいない。後ろにもいない。つまりわたしは抜かされていて、クラーラはずっと前に──も、いない。追い抜かれたのではないのはいいことだけれど、クラーラが消えた理由は謎のままだ。

荒い息をしながら困惑していると、となりのコース、わたしの少し後方で、クラーラの頭が一瞬、浮かんで、そして消えた。

溺れている。そう気付いたのと同じタイミングで、また頭が浮かんできて、沈んだ。

『あしが』

一瞬だけ浮かんだとき、クラーラはそう言ったように聞こえた。足がつったのかもしれない。だとすると、泳ぎ続けるのはとても難しいだろう。

よし。これで勝ちだ。クラーラにはゴミ捨て場で自分の愚かさを悔いてもらうことにしよう。前方に向き直って、今度こそ勝利を目指して泳ぎ出そうとして、ふと思う。

クラーラを助けてみてはどうか?

つまり、溺れるアレを助けるということは、全ての面で上回っている証拠になる。これ以上ないほどの勝利のあかしだ。

それに、この永遠に続くようなコースを、衆目に晒されながらもう半分泳がずに済む。

となりのコースに移るためにコースロープを掴むことになるから、そこで少し休憩もできる。

わたしは方向を変えて、コースの端まで泳ぎ、コースロープを掴む。その浮力を借りて上体を安定させると、呼吸を整えた。観客席がどよめいている。かまうものか。これはお前たちのための催しではない。

コースロープをくぐって、コースロープづたいに、水中でもがいているクラーラに近づく。クラーラはコースの中央で溺れているから、クラーラを引き上げるときはコースロープの助けを借りられない。

──溺れているひとを安易に助けようとしてはいけない。溺れているひとは往々にしてパニックになっているから、すごい力でしがみついてきて、けっきょく二人とも身動きが取れなくなって溺れるのだ──

そんな風に習ったことを、今になって思い出した。わたしにできるのだろうか。普通に考えたらできないけれど、でも、やるしかない。

客席が再び盛り上がり始めた。いつの間にか音楽が止まっていた。わたしがやりたいことに気付いたのだろう。歓声の中に、がんばれ、という声が混じっている。

言われなくても、やってやる、いま。

文字通り頼みの綱であるコースロープから手を離した。クラーラの元に泳ぎ寄って、手を差し伸べた。

「ぐぼごぼがぼぼ」

クラーラの手がわたしの腕を掴むやいなや、わたしは瞬く間に水中に引きずり込まれた。

二人分の重量を浮上させる水泳技術などもちろんわたしにはないので、なすすべなく二人で沈んでゆくことになった。水面に上がろうとクラーラがじたばたともがくのを、必至で押さえつける。

目を閉じて、自分が空気の中にいるのだと思い込もうと試みる。

わたしはニンジャだ。なぜそうなのかわたしも知らないけれど。

ニンジャの筋力をもってすれば、水底から飛び上がるなどたやすいことのはずだった──確証はないけれど──

足が水底に触れた。両足でしっかりと、そのつるつるとした表面をとらえた。

水中のぼやけた視界に目をこらして、コースロープの方向を確かめる。

十分に膝を曲げて力を溜めて──今だ──

ありったけの力で、わたしは水底を蹴った。目を開けていられないくらいの勢いで、水が背後に流れてゆく。どうしてさっきまでの犬かきでこの力が出せなかったのだろう、わたしたちはあっという間に水面に到達する。再び沈んでしまう前に素早くコースロープにしがみついて、乱れた呼吸を整えるのもそこそこに、

「こ、この勝負、ちゅ、ちゅうだん!」

わたしはありったけの声で叫んだ。プールが割れんばかりの拍手と、それから歓声に包まれた。

となりにいるのは青っぱなを垂らした死に体のクラーラだったから、ちっとも嬉しくなかったけれど。

「あ、ありがとう、ございます」

クラーラが、息も絶え絶えにお礼の言葉をよこした。

「こうするのが合理的だと思ったから」

わたしの返事の何がおもしろかったのか、えへへ、と笑うクラーラ。

割れんばかりの歓声の中、わたしはどうにかしてこの子がくたばらないかなと思っていた。

『審判員によりニンジャ対シスター・クラーラ 水泳対決 引き分けとの判定が下されました』

拍手と歓声を上書きするみたいな過剰な大音量で、ちょっと割れ気味のロゥさんの声がプールに響いた。よかった。ちゃんと引き分けになったんだ。ちゃんと丸く収まるんだ。

わたしは素朴にそう思った。ここまで頑張ったのだから結果が付いてきても別におかしくないと、そんな平和的な脳みそになっていたのだ。

まったく愚かしいことだった。続くロゥさんの一言を聞いて、わたしは我に返った。

『以上をもって本日のレースは終了です。希望者の方はカウンターで、〝おたのしみチケット〟をお出しください。半額の払い戻しを受けることができます』

歓声が一斉に止み、その代わりに困惑のどよめきが場を支配する。

「なんで半額なんだ! こういう時は全額払い戻すのが常識だろ!」

ついに、観覧席の幽霊のひとりが声を上げた。そうだそうだ、と、幽霊たちの大合唱がそれに続く。

『今回の初開催にあたっての必要経費の回収のため、そのような規約を適用させて頂いております旨の記載がチケットの裏側にございます』

観覧席にいる幽霊という幽霊が手元に目を落とし、そして最初に声を上げた幽霊がまた声を上げた。

「こんな小さな字が読めるか! 詐欺じゃないか! どうしてくれるんだ!」

『あー、規約はちゃんと読むようにしましょう、とか?』

「とか? って何だ! ブッ殺すぞ!」

あっという間にプールはブーイングの渦に包まれる。ブーイングの声がさっきの歓声よりも一段か二段ほど大きいのは気にくわないところだった。そういうわけで、わたしはすることもないのでプールの真ん中に浮かんで、ロゥさんがアナウンスしている実況席のようなものがあるはずだけど一体どこにあるんだろうと探していた。

「待ってくれ! 私達がクラーラに賭けたお金は、戻って来るよな? あれは信頼の証で、賭博ではないからね!」

『えー、賭けは賭けですね。だって賭けなんすから』

「くそっ、わかったぞ、お前らが、私達のような敬虔な信徒をハメるために仕組んだんだ! そうに決まってる!」

「お前らこそ、シスターが負けそうになった時は溺れたフリするように仕込んでおいたんだろ! そうだよなあ、みんな!?」

『みなさん、落ち着いてください。わかりました、六割返金ってことで手を打ちません?』

見ている間に、だんだん流れが変わってきた。今までは単にロゥさんと犠牲者多数の争いだったところに、さらに教会に与する者とそうでない者の派閥のようなものができて、状況はどんどん複雑になりつつあるようだった。幽霊同士が同時多発的に押し合い、もみ合い、そして殴り合いの喧嘩を始めたのだ。

ほんの少し前までは早いところプールから上がりたいと思っていたのだけれど、今はプールの真ん中にいることが最も安全に思えた。民衆を刺激してはいけない。クラーラにも目で合図を送るだけ送ろうとしたそのとき、

「おい! 上がってきて釈明したらどうなんだ! お前らにも責任はあるんだからな!」

プールサイドから水面に身を乗り出してわたしたちを糾弾する男の幽霊。よく見るとほんのりと顔が赤い。飲んでいるんだ。そのままプールに飛び込んで来られたら面倒なことになるぞ──

そう思ったそのとき、一発の銃声が響いて、一瞬、全ての幽霊が動きを止めた。

プールサイドからわたしに難癖をつけていた男も、すぐに銃声に反応した。懐から当然のように銃を取り出して、それを構えて身を守ろうとして──もう一発の銃声──銃弾が男の腹を貫いて、男は自らの血でプールをいくらか汚しながら痙攣する血袋に成り果てた。

あとはもう集団ヒステリーみたいなものだった。銃声がたてつづけに響いて、そのたびに血袋が増える。わたしから少し離れたところの水面が、見えない手で、ぱん、と叩かれたみたいに跳ねた。流れ弾が水面に着弾してしぶきを立てたのだ。わけのわからない方向に銃を撃っているやつがいる。しぶきの角度から、射手のだいたいの位置を推測するに──まずい、この位置取りはきわめて危険だ。遮蔽物カバーに隠れなければ──

わたしは後生大事に掴んでいたコースロープから手を離すと、両足をひれのように使って水を一蹴りし、最も身近な遮蔽物カバーである、クラーラの体の背後に回り込んだ。クラーラがわたしに何かを言おうとした。そして、銃声。

「ぎっ」

間に合った。

遮蔽物カバーが、ぎりぎりのタイミングでその役目を果たしてくれた。が、今度は別の方向からも水面を叩く銃弾があった。

わたしは息を大きく吸い込んで、水中深く潜った。射線を避けるにはもうこれしかないと思えたからだ。

水中はいくらか静かで、さらに水の循環装置が立てるごうごうという音で水の外の騒音がかき消されていたから、少しだけリラックスできた。そういえば、クラーラは撃たれる前、驚いた顔をしていたけれど、と、ふと思う。

──ああ、そうか、わたしが泳いでいるからだ──

この状況を受けてわたしの身体は既にニンジャ・モードとでも言うべきものに切り替わっていて、それはついさっきまでの犬かき泳ぎがせいぜいだったわたしを──それだけじゃない──わたしが『本当のわたし』だと思っていた、『そこそこ泳げるわたし』を完璧に上書きしていた。

ううん、もしかすると、そういう話でもないのかな。

昨日溺れてからずっと、カナヅチでもなければニンジャでもないわたしがどこかにいるのではないかと、わたしはずっと思っていた。

どういうわけか本当のわたしは偶然にも不在になっていて、でも努力さえすれば呼び戻すことができるんじゃないかと。

けれど、そんなものは最初からどこにもいなかったとしたら?

わたしたちは幽霊だ。遠い昔に生きていた人間といういきものの影でまぼろしで、雑なつぎはぎにすぎない。

わたしにはもはや本質と呼べるような上等なものはなくて、その時々に表に現れてくるいろいろが、場当たり的にわたしを規定してみせているだけなのかもしれない。

本当のわたしなんていない。

本当のわたしはもう死んでいる。

だったら、好きなようにするべきだ。

それが幽霊のつとめなんじゃないか、なんてね。

それはとても空虚なつとめに違いないんだけど。

でも、全てが悪いわけではないんだと思う。

わたしは、わたし自身からすら自由でいてよいのだ──

プールの底すれすれまで潜った。お腹がプールの底に付きそうなくらいぎりぎりのところで、息継ぎなしの平泳ぎのフォームで岸を目指した。

青い水底に水面のゆらぎと太陽がつくる金色の縞模様が踊っている。その美しさに心を奪われながら、わたしの体はまるで滑るみたいに水中を進んでいった。

鼻をつまんで鼻から息が抜けていかないようにして、背泳ぎのようにあお向けになった。水面越しに見上げる太陽はわたしの思い出の中のそれと寸分違わぬように見えた。あの光に向かって泳げば、在りし日の夏に帰れるんじゃないかと思った。

まあ、そんなわけはないんだけどね。

でも、そんなおかしな想像も楽しくなってしまうくらい、わたしはふわふわとした幸福の中にいたのだ。

そのうちに息が苦しくなってきた。そういえば、銃声ももう聞こえない。

意を決して、水面に顔を出した。

案の定、プールは地獄絵図の様相を呈していた。どういうわけかところどころ火事になっているし、観客席の一部は爆発して吹き飛んでいる。みんな自分のことに精一杯で、わたしの存在に気付く者は誰もいなかった。

少し離れたところで、クラーラの死体があお向けに浮かんでいるのが見えた。

さっきはあんなに苦労してやっと浮かんでいたのに、死体になった方がうまく浮いていられるなんてね。

驚きの表情のままに見開かれたクラーラの瞳と、目が合った気がした。

「わたし、実は泳げるんだよ、クラーラ」

もちろん死体は返事をするわけもなくて、自分がとてもまぬけに思えておもしろくなってしまって、わたしは少し笑った。

10

プールでの惨劇から数日後。

わたしは自分の部屋でインスタントコーヒーを飲みながら、缶入りクッキーをかじっていた。もちろん、普通に服を着て。

故障して過熱状態になっていたヒーターの修理が無事に終わったのだ。

ぬるくなってきたコーヒーを、ぐい、と流し込んで、わたしは息をひとつ吸い込んだ。

「この勝負、中断してください! ……違うな」

うーん。

「無効試合! ノーカウント! ……これも違う」

そんなことをしているうちに、玄関で部屋の鍵が回る音がした。

振り向くと、ヨルさんがよたよたと疲れた様子でドアの向こうから現れた。

「小夜子さん、いま誰としゃべってた?」

「あー、いいえ」

「でも声がしたよ」

「なんでもないんです。ただ、ちょっと気にくわなくて」

「気にくわない?」

「この前プールでクラーラを助けたあと、わたしが叫んだじゃないですか。勝負を中断しろって言ったと思うんですけど」

「うん、言ってた。かっこよかったよっ」

「……どうも。でもわたしはあんまり気に入ってなくて……気にくわなくて」

「だからやりなおしてたの?」

「はい」

「もう終わったのに?」

「そうです」

「ふうん」

「コーヒー飲みます?」

「ありがと」

お湯を沸かしなおしてコーヒーを二杯、用意した。

わたしが戻ったときには、お茶請けのクッキーは既にヨルさんに食べ尽くされていた。

まだだいぶあったんだけど。

「ひょっとしてお腹空いてました?」

「ううん、ちょっと疲れてて、やけぐい」

「プールのオーナーさんと打ち合わせでしたっけ」

「うん。でも今日でおしまい。すごい額を弁償させられることになっちゃって」

「大丈夫なんですか?」

「でもね、屋台とかロゥのお店のマージンとか、〝お楽しみチケット〟の収益も同じくらいたくさんあったんだ。パシフィカさんの計算だと、パテルさんところの『わりといいコーヒー』二杯分の赤字なんだって」

「それならヨルさんのお小遣いから払えますね」

「うん、持つべきものはドリンクスタンドだね」

それからわたしたちはしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。いつも通りの安っぽいようなひらべったい味だったけれど、どこか安心できる味だった。もちろんプールの人工的な日差しの中で飲むジュースもおいしかったけれど、寒い日に暖かい部屋で飲む熱い飲み物の方が好きだな、と思った。

「やっぱり私は冷たい飲み物よりあったかい飲み物の方が好きかも」

「ああ、」

「どうしたの?」

「いえ、なんでも」

わたしもちょうどそう思ってました。同じタイミングで同じ感想を抱くなんて、なんだか嬉しいですね。

そんなこと言ったら、まるでヨルさんに媚びてるみたいに思われるかも。

それは嫌だなあ。

「……ごめんね、小夜子さん」

「え? いえ、わたしもホットドリンクっていいと思いますけど、」

「ううん、プールのこと。お金もうけもしたかったけど、やっぱり一番は小夜子さんに楽しんでほしかったんだ。小夜子さんがなつかしい気分にひたって楽しくなれるような場所を作れると思ったんだけど」

そう言って、ヨルさんは一口、コーヒーをすすった。それからクッキーの缶の底を探って、自分がぜんぶ食べ尽くしてしまったことを思い出したらしく、手をひっこめた。

「なのに、どんどんへんな方向に進んでいっちゃって。私でもわかるもん。あんなの、小夜子さんの夏じゃない」

確かに、わたしの知っている夏にはDJブースも関係者専用スペースも水泳で賭博をするひとたちも存在しない。

でも、今の気分は悪くなかった。何かを台無しにされたという気もしなかった。むしろ、胸の中にあるこの気持ちに、わたしは奇妙ななつかしささえ感じていることに、そのとき気がついた。

「そんなことないですよ」

「でも、」

「わたしが言ってた夏って……そう、世間一般の夏だったんです。理想像の夏っていうか。だから、わたしの夏とは少し違った」

「違うの?」

「最初はいっしょなんです。夏ってことで頑張ろうって思って、いろいろやるのはそれはそうなんですけど……だいたいうまくいかなかった気がするんです。夏になった時はやろうって思ってたことが続けられなかったり、勇気が出せなかったりして」

「そうなの?」

「はい。夏が去ってから、今年の夏はなんだったんだろうなあ、って、しんみり思い出すんです。今回の件も結局そういう感じだったじゃないですか。だから、すごくなつかしい感じがするんです」

だから、あなたは見事にわたしの思い出の中の夏を再現してみせたんですよ。

そう言って、もう言うべきことがないことを確かめてから、早くもぬるくなり始めたコーヒーをすすった。

少ししゃべりすぎた気がした。まだ浮かれ気分が抜けきっていないのかもしれなかった。

もう夏は終わったっていうのに。

「そっか。つまり……うまくいかなかったのがうまくいったんだねっ」

「あはは、まあ幽霊のやることですから、それくらいで上出来じゃないですか?」

「あれ、小夜子さんにしては同類にやさしいことを」

わたしはカップを持ったまま立ち上がる。窓にかかる分厚いカーテンの隙間を少し広げて、雪と夜に閉ざされた幽霊の町の灯を眺める。

寒くて暗くて、狭くて暮らしづらくて退屈で治安が悪くて、でも友達も住んでいて、安いインスタントコーヒーをおいしく飲むにはちょうどよかったりする町の灯りを。

この町のどこを探したって、夏のひとかけらでも見つけることができるとは思えなかった。あるはずのないものがそこにいて、生きているように振る舞うとき、わたしたちはそれをなんと呼ぶか。

あれはきっと、幽霊による幽霊のための、夏の幽霊ゴーストサマーに違いなかった。

「何してるの? 小夜子さん」

「見送ってあげたほうがいいかと思って」

「何を?」

「あの、えっと──このまえの夏を。あれはもう──いないから」

言いたいことがぜんぜんまとまってなくて、へんな表現になった。わたしは単に「窓際で夏を偲んでるんですよ」と言えばよかったのだと、いつもこうして後から反省するのだから、まったく成長しないなあと思う。

それでもヨルさんは察してくれたのか、ああ、と納得したような声を上げて窓際にさっと駆け寄ると、豪快にカーテン──そして窓を開け放って、叫んだ。

「なつーーーー! さよーーーならーーーー!」

暖かかった部屋が、一瞬にして地獄じみた寒さに支配された。夏の暑さが恋しくて仕方なくなる。

それがどんなにせものの夏であっても。

寒さに震えるわたしを見てけらけらと笑うヨルさんの横っ腹を一発どついて床に転がしてから、

「さようなら」

今度こそわたしは、夏の幽霊を見送った。

このサイトは、サービスの向上を図るため、Cookie を使用しています。サイトの利用を続けるには、同意が必要です。詳しくはCookie ポリシーをご覧ください。

同意する