ニンジャ、閉架の父に遭う

揚げたてのフライドポテトから立ち上る湯気を眺めていた。あぶらっぽい湯気がしばらくただよってカフェの空気に溶けて消えて、また別の新しい湯気がそれにとってかわって──その日、わたしとヨルさんは仕事を早めに終えていたのでちょっと時間があって、それで夜食を(この町ではすべて夜食には違いないのだけど)外食しようということになって、それでいつものパテル氏のカフェにやってきていたのだった。

テーブル席の向かいに座るヨルさんと私の間に置かれているのは一見完璧な細身のフレンチフライの山だったけれど、実は塩もかかっていなければディップすべき調味料も付属していない不完全なもので、だからパテル氏を呼んでお塩をもらわないといけないな、でもそれだけのために呼び止めるなんてちょっときまずいかな。

「はむっ! ──はふはふ、はふっ!!」

わたしがそんなことを考えてまごまごしている間にも、ヨルさんは味なしフライドポテトを熱そうに、しかしガツガツとおなかに放り込んでいく。

ここで「そのポテトですけど味がついてないと思うんですよね」なんて指摘をしたなら、きっと彼女はこともなげに「じゃがいもの味がするよ」なんて言うに決まっているからわたしは触らぬ神もといヨルさんになんとやらということで黙っていることにしていた。

「申し訳ない! お二人さん、ポテトに塩を振り忘れていただろう? 今しがた、仕上げに塩を振った記憶がないことに気がついて……」

「あっはい、すみません」

足音ひとつ立てずにわたしたちのテーブルにやってきたパテル氏が調味料の缶を逆さにすると、ポテトの上に控えめな雪が降った。できたてよりすこし冷めてしまったというマイナスを適切な塩味がついたというプラスが上書きした。

「いやはやかたじけない。最近どうも忙しくてね。どうしても一つ一つの仕事が雑になってしまってよくないな。なあセンセー。これも『ヒンヤリ=ハット症候群』ってやつの症状だと考えていいのかな?」

パテル氏が不安げな視線をヨルさんに向けた。なんですかそのなんとか症候群って。思わずわたしもヨルさんに注目する。

「はふはふ、え、ハット? …………ああそうハットハットだよ! そういう病気なんだけど科学的に証明された適切な治療でかならずよくなります!」

「適切な治療か。ならこれ以上ない名医にかかっているから安心だな!」

「ふふん。用法用量を守って正しくお使いください! 病気っていうのはもちろん治るに越したことはないですねっ。でも、その治療の過程で自分を見つめるひとつの機会でもありますから……結果だけではだめなんです。過程も含めて、大事に治していきましょうね!」

「おお! センセーはいつもいいことを言うな。コーヒーのおかわりは店のおごりだ!」

厨房に消えていくパテル氏の背中を眺めながらポテトをひとつつまんで、それからわたしはヨルさんにそっとささやいた。

「わあ、さすがですね、すごくそれっぽかったです」

「……うーん、それがね、それっぽいのはいいんだけどね、小夜子さん。実はもうすっかりねたぎれなんだよ」

どんな賛辞であれとりあえず喜んでみせるのがヨルさんというひとだと思っていたのだけど、今回ばかりはそうでもないようだった。心底困ったという風に、額に両手を当ててうなだれてみせた。

「話にそれっぽさを出すためにはやっぱり専門用語ってやつがあるとグッとそれっぽくなるんだけどね、私はあんまり知らないからそのたびにてきとうに考えるわけなんだよね。いきあたりばったり考えるから自分でもどんな用語を新しく考えたか忘れちゃって」

「ああ、それで『ヒンヤリ=ハット症候群』なんですね」

「うん、私が知ってるその手の用語なんてほんとはランニング・グルグルダー効果とか釣り竿効果とかそれくらいだもん」

「ぐるぐるなんですか」

「よくわかんないけど、ぐるぐるなんじゃないかなあ」

「確かにぐるぐるだったら困りますよね」

「目が回るもんねえ」

「そこに釣り竿を投げ入れてあげるってことですか」

「いいね合わせ技っ! 釣り竿を握ってるとドキドキするのが釣り竿効果らしいんだけどね、つまりグルグル回転が加わって二倍の効果が見込めるということでいいよね」

「きっとそうですよ、そうしたら強敵にも勝てそうですね」

「いっぱい勝てるだろうねえ」

中身のないまぼろしみたいな会話をしながら食事を続けるうちに、ポテトの山はすっかり胃袋におさまって、ヨルさんが無料で手に入れた食後のコーヒーが運ばれてくる。

パテル氏が何か言って、わたしは反射的に首肯した。そのついでに頭の中にまぼろしがとろとろと流れ出して、無防備に口から流れ出た。

「ところで、図書館──

「ほう?」

──図書館ってあるんでしょうか」

言い切ってから、なにかもうちょっと言い方があったんじゃないかと反省する。つまりヨルさんが図書館でより知識を深めたらいいんだとかそういう文脈があって思いついたのだと伝えればよかったものを、これじゃうわごとみたいだ。

まあ、そもそもこの町に図書館なんて聞いたことがないし、どっちにしろなんなんだって話かなあ──

「図書館に行きたいのかい? 行っても面白くないと思うが」

「あるんですか、図書館」

「あることはあるが……行ってみればわかると思うよ。場所は──えーーーっと、言葉では言いづらいな。ちょっと待ってくれ。地図を描こうか」

わたしたちは夜の町を歩いていた。もちろん(今の今まで存在すら知らなかった)図書館に向かうためだ。

このあたりはパシフィカさんが住んでいるエリアとはまた別の、でも似たような感じのする閑静な住宅街で、整って歩きやすい道だった。路肩に何かの布ごみが落ちている他には、落書きもポイ捨てされたお酒のビンなんかも見当たらない。

ヨルさんが手に持った紙をぴらぴらと振りながら言った。

「この地図、おなかがすいてくるよね」

「ポテトの油がちょっと染みてて、いい匂いがするせいですね」

パテル氏がさっと手近な紙ナプキンに記した地図によれば、図書館はこのすぐ先だった。

それよりよりも気になるのは──

「ポテトの油がじわっと染みたナプキンってさあ」

「はい」

「そのままケチャップつけたらけっこうおいしく食べれそうな気がしない?」

「思わないですね。きもすぎです」

「やあん、小夜子さんにきもがられたあ」

ええと、それよりも気になるのは──

「なんでこの図書館の絵はぶち壊れたビルみたいなかたちをしてるんでしょうか」

わたしは地図の上を指でたどった。この大通りから少し入ったとある中くらいの交差点の先。その先にマルがついていて──察するにそこは目的地たる図書館で──マルの横にはミサイルでも撃ち込まれたみたいに横っ腹に穴の空いた学校みたいなものが描かれているのだった。

「相当ぼろいってことじゃないかなあ」

「借りられる本もぼろとかじゃないといいですけど」

「ぼろだったらいやだねえ」

「ぼろとはなんじゃ!」

わああああっ。

わたしは情けない悲鳴を上げて、その場にへたりこんだ。

彼だ。例のあいつ。前みたいに壁になげつけてやれればよかったのに。

たびたびわたしの前に現れては、不穏な言葉を投げかけてゆく老人。

老人から立ち上る独特の臭気が恐怖の記憶と結びついて、視界がぐるぐると回った。

でも、彼がただそこにいるだけならば、わたしだって少しは耐性がついているはずだった。

でも、だって。

老人は、瞬間的に現れたのだ。手品か何かみたいに、何も無い空間から沸いて出てきたのだ。腰だって抜かすというものだった。

「あ、あなたのことじゃないですよ!」

「自分を棚上げしよって! 誰のことだろうとボロ扱いしていいと思うたか! ワシはそういうの許せんタチなんじゃ! これが道徳じゃ!」

「らちがあきません。走りますよ、ヨルさん!」

「あいまむ!」

声を出すと、少しだけ元気が出た。ヨルさんの手を引いて、わたしは一目散に駆け出す。

図書館の場所は覚えている。だから、あとはそこまで走って行って逃げ込めばいい──

走りながら後ろ手に老人の様子をうかがうと、どうやら老人はこちらを追いかける気はないようで、足下に置いた何かの大袋を必死で持ち上げようとしていた。

あの荷物が大事なんだ。だから追ってこない。

安堵と同時に、わたしの脳裏にひらめきの電流がぴりっと流れた。老人が急に現れたように見えた理由が理解できたのだ。

わたしが路傍のゴミだと思っていたものは、袋を抱えたまま行き倒れた件の老人で、それが何かの拍子に意識を取り戻したんだ。

だから、急に現れたように見えた。

なんてまぎらわしい、はた迷惑な話だろうかと憤る気持ちと、行き倒れてまで運ばなければならない荷物があったんだろうかというある種の哀れみ。自分の気持ちとしていずれを採用していいのか戸惑いながら、わたしはヨルさんの手を引いて走った。

幸いなことに、図書館に着くなりその戸惑いはきれいに忘れ去られた。なぜなら──

「パテルさん、けっこう絵が上手かったんだねえ」

「えっと、自分でお店をやるようなひとっていうのは、こう、一人なんでもこなしてしまうような器用な人が多いような気もします」

かくして、パテル氏の地図はかなり正確なものだったことが明らかになった。かの壊れた学校のようなイラストは、特有のデフォルメを含みつつ現実のそれを端的に表現していたのだ。

そこは確かに図書館らしかった。看板を見るまでもなく、崩れ落ちた壁の向こうから覗く本棚の森を見れば、それはすぐにわかる。

どちらかと言えば教会の意匠に近い、古くて重厚な建築物。でも、教会とはちがって、どういうわけかそこはすっかり朽ち果てていた。

屋根も壁もところどころ破れて、外も中もなくなってしまっているように見える。この町の建物はあまり綺麗でないものも多いけれど、しかしこれは少し程度というか、格みたいなものが違っていた。

わたしは前にパシフィカさんとアーニャと行った廃駅のことを思い出す。二度と使われることのないであろう、かつての文明の巨大な死骸のことを。

この図書館の崩壊の原因が火事なのか何かの爆発なのか、あるいは人の手によるものなのか、それを判断するための証拠すら朽ち果てて、擦り切れて、想像することしかできない、朽ち果てた死骸。

冷たくてするどい風が吹いて、ひしゃげた正面ゲートが鈍い鳴き声を上げた。もちろん鍵はかかっていなくて、営業時間外にやってくる侵入者を拒絶する役割を果たせていない。そもそもここに営業時間なんてものがあるとも思わないけれど。

「なにはなくともおじゃまします」

「あっヨルさん」

ぴょんぴょんとひび割れや瓦礫を避けながら、ヨルさんは図書館の中の暗闇に飛び込んでゆく。

わたしももちろん追いかける。

もちろん、いやだけれど。

「うわお、吹き抜けっ。うちにもあったらいいよねえ」

ヨルさんの言うとおり、エントランスは吹き抜けになっていて、破れた屋根と壁から外の光がぼんやりと入ってくる。

「吹き抜けってあったらいいんですかね?」

「吹き抜けているほうが吹き抜けていないよりよいに決まっているんだよ、小夜子さん」

「そうなんですね。とにかく、もともとは立派な建物だってみたいですね」

受付と思しきカウンターの前にわたしたちはやってきた。これは貸し出しカウンターだろうか。

カウンターの背後の壁は破れて、その向こうには三階まで吹き抜けた巨大な閲覧室が見える。

かつてはここからたくさんの本が貸し出されて、知識とか物語とか、そういう文明の血液とでもいえるものを、この小さな町に日々送り出していたんだろうな。

この木の天板の上を、一体どれだけの本が行き交ってきたのだろう。

埃とそれから舞い込んだ雪の水分が合わさった灰褐色の塊で、カウンターはすっかり汚れていた。ちょっとだけためらってから、その表面に、そっと指を這わせてみる。

ここの受付の人はどんな人だったんだろう。貸出期限を過ぎて返却する人は厳しく怒ったのかな。破ってしまった本をセロハンテープで勝手に補修しちゃった人には?

そういう景色はわたしの故郷でもこの町でもきっと同じようにあったはずだ。言葉と場所が違うだけで、きっとそれは相似のかたちであったはずで。

指を這わせた跡の部分からは、ほんとうの木目がうっすらと覗いた。でもそれはうっすらでしかなくて、本当の姿にはまだまだ、まだまだまだまだ距離がありすぎて──

「いててっ」

「ぼん」と「ごん」の中間のような音を出して、カウンターが震える。いつの間にかカウンターの向こう側に回り込んでいたヨルさんが、カウンターの下に潜り込んで頭をぶつけたらしい。

「けっこう痛そうな音がしましたけど、だいじょうぶですか?」

「いひひ、だいじょぶだいじょぶ。いいもの見つけたよ──ほら小夜子さんのぶん」

そう言ってカウンターの下から這い出てきたヨルさんがわたしによこしたのは、四角い銀色のプレートに「有期契約臨時職員アルバイト」と書かれた大ぶりなバッヂだった。安全ピンで留めるシンプルなタイプ。シンプルがゆえの丈夫さか、今でもまだ適当な布地に留めることができそうに見えた。

「アルバイトだってさ。精神分析スタンドが廃業になったらここでバイトしようよ、ひまでいいかんじだよ」

「ひまなのはいいですけど、お給料を払ってくれるひとがいるかなあ……」

「そういうのはパシフィカ先生に事業計画を頼むとかしてさっ。じゃじゃーん、にあう?」

そう言って、ヨルさんは自分の服の胸に「アルバイト」のバッヂをつける。もちろんそれはバッヂでしかないわけで、そんなの似合うもなにもなかった。

「ええと、アルバイトだってことがしっかりとわかりますね」

「むう。じゃあ小夜子さんもアルバイト戦士の仲間入りだっ」

ヨルさんがわたしの胸にもバッヂを留めようと、カウンター越しに身を乗り出してくる。

わたしがさっとよけるとヨルさんがカウンターの上を滑って床に滑り落ちて、何がおかしいのかゲラゲラ笑うものだから舞い上がった埃を吸い込みすぎて呼吸困難になって危険な感じできながら床を転がり回った。わたしもなんだかおかしくなって、埃を吸い込まないように注意しながらもひっひっひと笑って、そんなわたしの向こうずねを床に転がった(つまり呼吸困難で起き上がれないのだ)ヨルさんがぽかぽかと叩いて──

もちろん楽しいことは楽しいのだけれど、結局廃墟を荒らしてそこで小学生みたいなじゃれ合いに興じているだけなんだよなあ。

なんて、すったもんだの末にわたしの胸元で輝くことになったアルバイトバッヂをいじりながら思っていると、

「遊んでおるのはぁ!!! だれじゃああああ!!!!」

ほんわかした心の温度が一瞬にして、吹き込んだ雪の結晶と同じ温度になる。

さきほどわたしたちが入ってきた入り口の方を見やれば、見慣れた(見慣れたくもなかったのだけれど)朽ち果てた枯れ木の怪人めいたシルエット。

あの老人、後をついてきたのか──

「ほっといてよ!」

わたしは強気に出ることにした。ヨルさんを連れてボロボロの図書館の中を逃げるのはあまりに手間で、むしろ無防備に未知の危険に肉薄する可能性すらある。

であればここで老人を追い返すか、あるいは正面突破したほうが、よほどシンプルで安全だ。

ヨルさんには今のうちに「逃げるって言ったら逃げますからね」と耳打ちする。

その間にも老人は例の袋を引きずりながら、図書館の出口からを背負って、わたしたちへ距離を詰めてくる。

袋は彼にとってかなり重い荷物であるらしい。前傾姿勢になって床を見つめながら一歩一歩進むその足取りは、痛々しいまでに遅々としていて。

自分の呼吸音。布を引きずる音。そして老人の不明瞭なつぶやき。その三種類だけが、この世界の音のすべてだった。

「ここがどこか分かっとるのかここはダンスホールじゃダンスと言っても静かなダンスの王様じゃとまだ同じことを言い続けて新聞紙のまずさも悲しんでおるのか? いまさら液体窒素? 明日こそ来ないわい。ばかのやることじゃ。ばかものども」

これは意味のない、無価値な言葉の羅列だ。自分に言い聞かせる。

心を動かす必要はない。恐れる必要もない。もちろん悲しむ必要だってない──

そうやって耐えた。

そして、ついに会話の間合いまでやってきた老人を、きっ、と見据えた。

老人もまた袋から手を離して、ついにわたしと目を合わせた。老人の口角がゆっくりと持ち上がる。喜んでいるのか。それはどうして?いや、考えるだけむだなのだ。

老人の口角はそのまま上がり続け、痩せた歯ぐきがその全貌をあらわにして──

「ば、ばばばばばばばばばばばばばば」

「小夜子さん、おじいさん壊れちゃったよ」

「ばばばば」

「なんにもしてないのに勝手に壊れましたね」

「ばーーーばばばばばば、ばばばばばばばば、ば」

「あっ、なんかして壊したひとはみんなそう言うんだってアーニャが──

「ばばばばば──バイトの! 新しい子らじゃな! いやあ助かった、年寄り一人で途方に暮れていたところじゃった」

「えっ、バイトって、アルバイトのバイト……ですか?」

「ふむ、最近はインターンと言うんじゃったかの? どっちでもええ。重要なのはちゃんと肩関節が上まで上がるスタッフが図書館にやってきたことじゃ。上がるじゃろう? 肩」

「あっはい、普通に上がりますけど」

「うーむ。素晴らしい。その若さが今はどんな戦車よりも頼もしく感じるわい」

老人の状態は異常だった。異常でなさすぎることが異常だった。つまり、彼の話しぶりはかなりまともで、むしろ老人らしい上から目線もほどほどでとても感じがよくて──だからわたしもなぜか敬語でしゃべってしまっていたのだ。

黒目の印象がほとんどないほどに灰色によどんだ目玉にも理性の光が宿っているように見えて、もしかして本当に彼はわたしと会話をしているんじゃないかと思ってしまう。

困惑するわたしの背中を、そっとつつくヨルさんの指。

「ちょっといいかな、小夜子さん」

振り返って目線で「どうぞ」と促すと、ヨルさんが自分の胸元を指す。そこにあるのは──「アルバイト」のバッヂ。

わたしは眉をひそめて、ヨルさんを改めて見やった。

──そういうことなんでしょうか。

──そういうことなんだろうねえ。

──そんな話があるでしょうか?

──あるってことはあるんだよ、小夜子さん。

「つまり、図書館の司書さんとか、管理人みたいな仕事をしてたんでしょうか、その、ふつうのころは。で、それを思い出しているっていう……」

「それか、そういう仕事にあこがれていて、でもなることができなくて、いまはそのごっこあそびの最中だったりしてねっ」

「うわあこわいですね」

まあ、一触即発のあの空気に比べればましなのかもしれない。

老人に訪れた変化はちょっと気になるものだったけれど、わたしたちはまだ精神分析スタンドを廃業していないからアルバイトの必要はないし、そもそもここには本を借りに来たのだ。すっかり胸の中で存在感をなくしていた、目的を果たして今日も家に帰るんだという気持ちがふたたび膨らんでくる。

「それもいいんですけど、本を借りたくて。仕事は明日からってことに……」

「それは無理な相談じゃ。利用者マナーの悪化のせいで、しばらく貸し出し禁止なんじゃ。そもそも本の内容だけならもう電子書籍データベースを見ろっちゅうことでお達しがあってな。お嬢ちゃんも得意じゃろ? インターネット」

その名前を聞いて、ああ、そんなものもあったな、と思う。

文字通り世界を包み込んでなお発展し続けた、あまりにも巨大な情報網。

世界とのつながりを絶たれたこの町にはそんなものはもちろんなくて、そういえばインターネットで本を読めたんだっけということをわたしはぼんやりと思い出していた。

「あー、えっと……インターネットは苦手で」

説明がとても難しくなりそうだったので、わたしはざっとごまかした。

話しぶりからして、老人の時代認識にはやや齟齬があるように思える。彼はまだ自分の世界が「生きている」気でいるんじゃないか。

「おお、そうかそうか。ワシもインターネットはどうも好かんでな。ならよいお知らせがあるぞ。実はな……ワシら職員は貸し出し禁止の対象にはなっとらん。一度に五冊まで借り放題というわけじゃ。外側のルールは時代によってころころ変わる。しかし内側の変化はすぐには来ない。少し時間差があるものじゃ。その時間差の間にするべきことをできるかが勝負じゃとわしは思うよ……いかん、何の話だったか」

なるほどなあ。歳を取ったひとが言うとやっぱり含蓄というか説得力があるものだ。

なんて関心している場合じゃないぞ、とわたしが気を取り直したのとほとんど同時に、ヨルさんがうおーっとむだな叫び声を上げてみせた。

「おっしゃー! じゃあ働くっきゃないですねっ!」

理屈はそうかもしれないけれど、そんなに安請け合いしていいものだろうか。

わたしはヨルさんをこっそりといさめる。

「いいんですか、ヨルさん、けっこうめんどくさいことになってる気がするんですけど」

「いいよいいよ、せっかく遠出したんだし。それに意外ときついようだったらばっくれてもいいんだよ」

「うわあ、邪悪すぎる」

「ああん、小夜子さんに邪悪がられたあ」

「お嬢さんたち、話し合いは済んだかの?」

老人はいつの間にか姿勢もちょっとよくなって、そのせいか服装の汚らしさもいくらか薄らいで見えた。

新しいアルバイト先の責任者の、ちょっと変わり者のおじいさん。今の彼はそんな感じだった。

彼はこのままずっとこうなんだろうか?だったら正直ありがたい。というか、嬉しい。

彼はいつか戻ってしまうとしたら?それはいやだなあ。

もしかしてここでしばらく話を合わせていれば、謎に包まれた彼のことも少しはわかるのかな?

わからなくて、目が離せない。わかる必要がないとわかっていても、ずるずると。

「初日はまず本の整理からお願いするかの。準備はよいか?」

「いえーすご隠居!」

「い、いえす……」

遠い昔、インターネットを使ってテレビドラマを見たような気がした。

確か恋愛もので、男のひとが記憶喪失で、別にどうでもいいような話だったけど毎回とも次回が、その次回ではその次回が、つづきが気になるように巧妙にできていて、それでずっと完結まで観てしまったのだ。

半ば自分の意思に関係なく、ずるずると引きずられるままに。

あのときどうすればよかったのかというと、きっと見始めた時点でドラマの思うつぼだったのだと思う。

そしていま、わたしの目の前でドラマは始まってしまったのだなあ。

そんなことをぼんやりと思いながら、わたしの突発的アルバイトは始まりを迎えたのだった。

と、そういったわけでやや奇妙ないきさつを経て、わたしたちは朽ちた図書館でアルバイトの仕事に精を出していた。

ここは二階のたぶん閲覧室のようなところ。壁と天井の一部は崩れ落ちてすでになくなっていた。電気もつかないようで、上司たる老人が手渡してくれた古風な(これは本当に古風で、なんと本当の火を用いたものだった)ランプの灯りだけが光源だった。

崩れ落ちずに残った壁に、舞い込む雪がおぼろげな影絵を映している。その無数の影絵の中にひとつだけはっきりと、伸び上がってはまた縮む──その繰り返しのような影があった。

それがわたしだった。

「はいっ」

「ほいっ」

「はいっ」

「ほいっ」

これはそう、モチつきに近いな。わたしはぼんやりと思った。

ヨルさんに「はいっ」と渡された本を片手にして、「ほいっ」と高く跳び上がる。三メートルはあろうかという高い本棚の最上段に本をそっと差し込んで、ほどなくして地上に着地するとまた間髪入れずにヨルさんがわたしに本を渡すので、また跳躍して本を差し込む。一定のリズムでその繰り返し。

わたしたちは図書館の二階で書架に本を並べる仕事を命じられていた。本の整理と聞かされて「本の分類なんかできるかなあ」と不安に思っていたのだけれど、なんということはない。しかるべき本棚の前にしかるべき順序で並べられたしかるべき本を載せたブックトラックが置かれているので(あの老人が独りせっせと並べたのだろう)、わたしたちはしかるべき順序を崩さないようにだけ気を付けて、上から順番に片本を棚に差し込んでいくだけでよかった。本来は備え付けの脚立などを使う作業なのだろうけど、わたしはニンジャらしいのでそのまどろっこしい上り下りを省略することが可能だった。

わたしたちはどういうわけかもくもくと作業を進めた。わたしもヨルさんも、頭をからっぽにして没頭するのが楽しかったのだと思う。確かに最近色んなことがありすぎて、ひとりでいれば考えすぎてしまうし、ふたりでいればたちまちのうちにまぼろしみたいな会話が始まってしまうしで、こういう静かな時間は実はあんまりないのだと思った。

きわめて言葉少なに業務を遂行しながら、わたしはもう何度目になるかわからない跳躍をする。ジャンプの頂点の位置調整ももはやばっちりで、目の前のからっぽの一段に、分厚い背表紙の薄汚れてしまった一冊──表紙になにやら人体の略図みたいなものが描いてある──をそっと置いた。

きっと、かつてはこの棚も本でいっぱいだったはずだ。しかし、今はからっぽで、こうして本を補充してやらなければならない。補充された本というのはそこが本来の居場所ではないはずだから、ふと忘れた拍子なんかにもとあった場所、例えば町外れのゴミの山なんかに戻ってしまう。

──つまりこれはむだなんだ。

──でも、この町でむだでないことなんて何かひとつでもあるかな?

こんなふうに結局考え込んでしまうのがわたしのよくないところで、それこそヨルさんにカウンセリングしてもらったらいいじゃないなんて思ったりしていると、ヨルさんが、ぎょお、と声を上げて、わたしはふと我に返った。

「あったよー、小夜子さん」

わたしは完全にくせでヨルさんから本をひったくって跳躍した。空中でその表紙を確認する。古めかしい書体で「心理学用語辞典」と書いてある。

「どんぴしゃで求めていたものですね。働いた甲斐がありました」

「うんっ、じゃあさっさとずらかろうか、こっそりと」

「それで心が痛まないのはちょっとすごいですね」

「あちゃーだめかあ」

前言撤回だ。ヨルさんはこの作業にけっこう飽きていたらしい。

あるいはわたしが飽きている可能性を考慮して、逃げ出す口実をつくってくれた……というのは、ちょっと考えすぎなのかな。

炎がつくる不安定な光が、わたしたちの影を壁に投げかけていた。そわそわと言葉を探すわたしのシルエットの拡大コピー版はちょっとこっけいな感じがして、思わず目をそらした。

「えっとじつは、格闘技の本が欲しいなと思いまして」

「小夜子さんはじゅうぶん強いと思うけど」

「さらなる高みを目指したくて」

「おおっ、ぷろふぇっしょなる!」

一応の意見のまとまりを経て、わたしたちは作業を再開しようとした。

そのとき、ひずんで割れたようなハウリングが図書館を揺るがした。続いて、老人の声。

『お嬢ちゃん二人、休憩時間じゃ』

揺るがしたというのは比喩でもなんでもなくて、これは現に天井からほこりがぱらぱらと落ちてきたのでそう言うしかないのだ。ついでにスピーカーの音量も大きすぎる上に不安定で、この図書館がすでにほろびた遺骸なのだという事実を改めて突きつけられたように思えた。

『地下の職員スペースに集合じゃ! 道順を今から言うぞ──

わたしたちは件の貸し出しカウンターから向かって右の突き当たりを下ってスタッフ専用のドアをくぐって、それから半階分階段を降りた先、底冷えのする用務員室のようなところにいた。

元は会議机と思わしき年代物の合板テーブルには、すでに老人が着席していて、やってきたわたしたちを見るなり、にっこりとほほえんだ。

「慣れない仕事で疲れたじゃろう。茶でも飲みなさい」

部屋の一辺についているのは、こぢんまりとした備え付けのキッチン。別の片隅にはこちらも小ぶりなソファと小さなテレビなんかもあって、生活感のある空間だった。

「ここは宿直室みたいなところなんですか?」

「まあ、そんなところじゃな。責任者はここに住まうことが許可されておるでな、ワシが家として使っておる。家賃が浮くのはいかにも大きいじゃろう?」

老人はそう言ってカカカと笑うと、彼の後ろ手に二つ並んだドアの片方を指さして、そこがもともと会議室だったこと、そこに手作りのベッドを用意して寝室に改造したけれどそれに苦労したのだというようなことを楽しそうに話し始めた。

(……ねえねえ小夜子さん)

(なんですか)

(もういっこのドアはなんなんだろうね)

(気になるなら聞いてみたらいいと思いますけど)

(えーっ、長くなったら休憩終わっちゃうよ)

ちょっと途中でヨルさんのこそこそ話に付き合ったものの、わたしはおおむねちゃんと彼がもつリフォームのノウハウについて耳を傾けた。

「いかんいかん、孤独な年寄りの長話に付き合わせたな」

「いえ、あの、楽しくうかがいました」

こそこそ話をしていた身で白々しいな、という感じもするけれど、彼の話しぶりは実際とても楽しそうで、この場所と自分と仕事とのつながりをとても大事にしているような気配があって、だから内容に興味があるかはともかくとして、聞いていて心地よいものではあったのだ。

「興味のない話に相づちを打つのは疲れるじゃろう。ハーブ茶を飲んで気を休めたらええ」

そう言って、老人はわたしたちに卓上で湯気を上げるカップをすすめた。

しかしそれはどう見ても茶色のどろどろした何かで、土と腐敗の臭気をほんのりと漂わせていた。お茶には見えない。

やっぱりこのひとはふつうの状態ではないんだな。わかっていたけれど、少し悲しくなった。

ごく表面はまともらしく見えても、内側の深い部分は、もう手の施しようがなくむしばまれているんだ。

筐体をバンバンと叩いたら一時的に直るけれど、すぐにまたおかしくなってしまう昔のシンプルな電化製品みたいに。

「わーい、いただきます」

「あっそれはやめたほうが」

わたしが止めたときにはもう遅かった。ヨルさんは勇気というべきか蛮勇というべきか、おもむろにそのお茶らしいものに一口(しかも一口の中でも比較的大きめのやつだ)、口を付けていた。

「んんんんーーー!」

ヨルさんが声にならない悲鳴を上げた。

謎の液体を口から吐き出すこともできないまま、腰掛けたパイプ椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がって、階段を登ってどこかへ行った。たぶん外とかで吐き出してくるつもりなんだろう、とわたしは思った。

「はっはっは、若い子には、コーヒーは大人の味じゃったかの」

「コーヒー? ……ええとそうなんです、わたしも苦いのが苦手で」

「そうか。今度はもう少し若い子向けの飲み物を揃えておくとしようかの……アルコール以外でな? ハイになるのは金曜の夜と決まっておる」

「あはは、それはそうですね」

金曜日の夜、か。

わたしは乾いた笑い声を上げつつ、ヨルさんの帰りを心から待ちわびた。いつか沈黙が訪れてしまうのが怖かった。そりゃあ気心の知れていないひととの沈黙はいつだって恐怖なんだけど、そうではなくて沈黙の間に「いつもの彼」が戻ってきてしまうんじゃないかという不安が恐怖をいや増していて。

「そうだ、あの」

「なんじゃ」

てきとうな言葉が口をついて出た。最近、こうやって不用意に話し始めてしまうことが多くていけないなと思う。仕方がないので視線をあたりにめぐらせて、話題を探す。

わたしは「それ」に目をつけ、これも反射的に即席の質問を投げかけた。

「こっちのドアは寝室だとしたら、あっち側のドアは書斎だったりするんでしょうか」

「ドアは一つじゃ」

「えっでも」

「一つじゃ!」

今度は老人が椅子を蹴飛ばして立ち上がる番だった。地下によどんだ空気が部屋の中でうずまいているような感覚があった。老人は荒い息をつきながら、わたしをにらみつける。

その瞳の奥にちらつくのは混乱と憤りとそれから──恐怖。

「一つじゃ! そんなものは存在しない! どうやって見つけた!?」

ふいに内臓を直接殴られたような衝撃に、わたしは打ちのめされた。ああ、〝これはだめなやつ〟だったんだ。

「まさか、お前はスパイか? ワシをまだ痛めつけようと言うのか?」

「違います、ドアは一つです。わたしの見間違いでした」

「そうじゃ! 間違っておる! その間違いをいつまで責めるつもりじゃ!」

「聞いて! 仕事を手伝ってくれるアルバイトが欲しかったんでしょう!」

彼の世界はひどくもろい。胸に光るバッヂひとつで大きくそのかたちが変わってしまうくらいに。だからそっと扱う必要があると、すでにわたしは知っていた。

なのに、どうしてもっとよく考えることができなかったんだろう。

いや、いくら考えたところで何を言ったらよくて何を言ったらいけないかなんてわかりようもないに決まっていたのだけれど、しかしそう思わずにはいられなかった。

「このバッヂを見て。わたしが誰だったか考えてみてください」

「それは……それは……」

「本棚の整理をあなたはわたしに命じた。今は休憩時間。でもそろそろ仕事に戻らないといけない。そうですよね」

「時間はいずれ終わる。眠る。夜が来る。だから次が始まる、はずじゃ」

老人は低く何かをつぶやいていた。古い詩のように一定のリズムで、何かを。その意味はわからなくても、彼が少し落ち着いてきたという事実が、わたしにとっては大事。

「始まるのは、お仕事の時間ですね」

「うむ、そう、その通りじゃ、わしも、そう、仕事に戻らねば、きょうは──

老人ははざまで揺れていた。わたしが知らない何かと何かのはざまで。

それが何かを知らなくても、何かがあるってことはわかった。

わたしはできるかぎり毅然とした態度で、自分の胸についたバッヂを老人につきつける。

黄ばんだ蛍光灯の光が、バッヂの鈍い銀色をねむたげに反射した。その輝きが持つちっぽけな魔力に、今のわたしはすがるしかない。

仕事。労働。社会的な役割。相対的な社会とのつながり。その結晶がこのバッヂなんじゃないかと思えたから。

「わたしはここのアルバイトで、あなたは上司じゃないですか、だから仕事に戻ります、それでいいですね?」

「うう、ううむ」

「仕事に戻りますね」

「あ、ああ、それがよさそうじゃ、いや、うむ……ぜひそうしてくれんかの、その、ワシはつまりこれから──

老人の荒い息は少しだけ落ち着いて、今はさっきよりいくぶんか危険ではない存在に見えた。わたしは細心の注意を払いつつ、老人を後に残して宿直室をあとにする。

──休憩時間は終わり。もう少しだけ、この労働ごっこを続けることにしよう。

ランプの明かりだけを頼りに、わたしはふたたび跳躍と着地を繰り返しては本棚に本を並べる作業を続けていた。

なんだっけこれ。バスケットボールのダンクシュートって確かこんな感じだったかなあ。

一刻も早くこの図書館を出てしまいたかったけれど、どこかに行ってしまったヨルさんも、さすがにそろそろ戻ってくるだろうと思うし。

でも、ずいぶん遅いな。どこかで口直しでもしているにしても、なんだか遅すぎるように思えた。

うーん。あのお茶だかコーヒーだかわからないものが体にものすごく毒だったりして、それでどこかで行き倒れているんじゃないかなあ。

だったらいやだなあ。インターネットがあったらこういったときに連絡が簡単にできたりしたんだっけ。

これでわたしが家に帰ったとたんヨルさんが図書館に戻ってきて、それで入れ違いになったとしたらばかばかしいし。

どうしたものかなあ。

わたしは決めることができなかった。さっきの一件で判断力が摩耗してしまったんじゃないかなあと思う。決めることができないからいつまでもだらだらと単純作業に明け暮れているというわけだった。

ブックトラックからまた一冊を抜き取って、跳躍。

ジャンプの頂点で、本棚の最上段にそっと差し込む。

この本も近いうちにゴミ山に戻ってしまうっていうのにね。

着地。

ブックトラックからまた一冊取って──あれっ、これって空手の本じゃない?──惰性のままにぼんやりとわたしは地面を蹴った。それがいけなかった。

「ぐえっ」

地面を蹴る角度がわずかにずれて、わたしは跳躍の途中で、巨大な木製の本棚に思い切り体を打ちつけた。

今度こそほんとうに内臓を殴られたような衝撃とともに、わたしは本棚にはじき返されてぶざまにも床に転がった。

まあだれも見てなかったからよかったよね見られてたら最悪だったね、と他でもない自分に適当なことを言いながら身を起こして、本棚を見上げた。

「うそでしょ」

最悪だった。

わたしが勢いよくぶつかったことで、目の前の本棚はゆっくりと倒れようとしていた。

ふつう、図書館の本棚というのは万が一にも倒れることがないよう、十全に床面に固定されているものだろう。でも、この図書館に十全なものはひとつとして存在しないわけで。

だから、わたしがぶつかったことによって固定具が外れ、本棚は今まさに倒れようとしているのだ。

「だめ、まってまってまってまって」

すべてがスローモーションのように見えた。体の隅々まで感覚が鋭敏になっているのがわかる。でも、そのくせ動く力だけは決してわいてこないのだ。

本棚がこちらに倒れてくるなら、むだだとわかりつつも踏ん張って支える余地もあっただろう。けれども道理としてわたしがぶつかった力の方向に本棚は倒れていっているわけで、だからつまりどうしようもないわけで。

体が動かないのは、動かしてもしょうがないとわたしが知っているからだ。

──これはさすがにクビかなあ──

どおん。

重たい音を立てて、本棚の転倒が止まる。完全に倒れきる前に、隣の本棚によりかかるかたちで踏みとどまってくれたようだ。

しめた、これなら反対側に回って、なんとか起こせるかもしれないぞ。

床にへたばりながら、そっと胸をなで下ろしたその瞬間のこと。

重力が消えた。

もちろん実際にそんなことはなくて。

では実際何が起きたのかというと、そのわたしがへたばっている床そのものが、轟音と共に崩落したのだった。

忍耐のかぎり限界まで息を止めて、限界というところでやっと息を吸い込むときみたいに。

あるいは、一晩中うなされた悪夢から、やっと目覚めるときみたいに。

そんなふうにわたしは意識を取り戻した。

わたしは崩落したがれきの中でのびていた。

嗅ぎ覚えのある、いやな臭いがした。有機物も無機物もいっしょくたに燃える臭い。こんな臭いの中で目覚めることになるなんて。あの古いランプの炎が本に引火したんだと思った。

くそっ。時代遅れの遺物を使うからこういうことになるんだ。

全身に走る痛みがわたしを粗暴にしていた。その粗暴な怒りを心にくべて起き上がるための力にしようとして──うまくいった。

わたしの倒れていたところから少し離れて、炎上している本棚があった。もう消火するのは難しいけれど、まだ逃げられるくらいの勢い。

痛みも徐々に引いてきた。そんなに強い衝撃じゃなかったのかも。気絶していたのもほんの一瞬かもしれない。ほら、たいしたことないじゃん。

自分を鼓舞しながら、次に起きることに備えた。あまり待つ必要はないだろうと思った。彼は仕事熱心な男なのだから。

「おおおおお、おお、お前、何をした!」

ぜいぜいと息をあえがせながら、かくして老人はやってきた。

荒い呼吸のままに咳き込んだ拍子に、手に持っていた何かを取り落とした。前にも見た、汚い袋だ。

彼はきっとまたどこかからか本を集めてきた帰りなんだなとわたしは思った。

「わたしの不注意です。本棚が倒れてしまって、その拍子に床が抜けてしまいました。一緒に避難して、できるなら消防車を──

「本を焼いたのはお前か! よくも、ワシの」

「わざとじゃないんです! とにかく逃げないと!」

「やっと現場を押さえた! なのに逃がすじゃと!? ありえんな! 悪はしかるべき報いを受けるものじゃ! お前が燃やした本の中にはそう書いてある!」

「ああもう!」

〝やってしまった〟のは他でもないわたしだ。

そのことについては謝らなければならないし、責任を追及されることに異論はない。けれど、目の前の老人はそれ以上のまぼろしをわたしに投影して、ますます傷つき、怒っているのは明らかだ。

胸元にそっと手をやった。まあそんな予感はしたのだけれど──バッヂがない。単に外れたのか、意識を失ったときに無くなってしまったのか。

いずれにせよ、素敵な魔法は終わった。彼はなりゆき上の上司ではなく、気の触れた老人に戻った。またもとどおりに。それもまた幽霊の町らしいとも言えるかもしれないけれど。

「わ、わわわわわかったぞ、わ、わわわわわワシに、ししししかえしということじゃな」

「小夜子さん!」

突然、ヨルさんの声がして、わたしはぎくりと振り返った。

徐々に赤く染まりつつある廊下の少し先にヨルさんが立っていた。その背後にある扉は──そうか、地下の宿直室にゆくためのドアだ。

「小夜子さん、何があったの?」

「わたしが本棚を倒してしまって」

「本棚を倒すと図書館が燃えるって、アレだね、バター揚げ!Fried-butter

「ヨルさんはきっとバタフライButterflyエフェクトの話がしたいんですね」

「お、おおおおまえ、ワシの──あの部屋を──やはりスパイじゃったか!」

老人のターゲットは、今やわたしではなくヨルさんだった。奇声を上げて、ヨルさんに走り寄る隙だらけの背中に、とっさに蹴りを入れた。

肺からまったくすべての空気が抜けきる悲しげな吐息と共に、老人は倒れて気を失った。

「これで安心です、避難しないと」

「あーっ、図書館を燃やして逃げるなんてわるいんだあ!」

「そっちの非難じゃなくて」

急に動いたせいで少し体の節々が痛んだので、ヨルさんと老人の右足と左足をそれぞれ分担して掴んで、そして引きずって図書館の外に運んだ。

そこからもうちょっとがんばって、このまま火が燃え広がったとしてもまあだいじょうぶかな、というところまで運び終える頃には、わたしもヨルさんもすっかり疲れ果てていた。

意識を失って路上にうち捨てられた老人を、最後に一度だけ振り返った。ごめんなさい。まずは大切な図書館を燃やしてしまって。

そして、あなたに手を差し伸べることができなくて。

でも、すべては明日になったらもとどおりだ。それが幽霊の町のありようというもので、今回は珍しくそれが多少のなぐさめにはなっていた。

けれども──

もうなにもしたくなかった。しぶしぶながら消防車を呼ぼうかどうかみたいなことをヨルさんと少し話し合って、でも消防車なんてこの町で見たこともないしきっとぼや程度だからもういいよね帰って寝ようねということになって、それでわたしたちはとぼとぼと帰路についた。

もういくぶんか夜明けに近づいて幽霊通りのほとんどない道のりをもくもくと進む。

「あっそうだ、さっきは助けてくれてありがとうね」

「注意できたらよかったんですけど、なんかあの宿直室のドアのもうひとつのほうは触れちゃだめなものだったらしくて」

「うん……」

「なんだか含みがありますね」

ヨルさんはあいまいに肩をすくめた。きっとそういうことなんだろうなと思いながら、わたしはせっかくなので聞いてみることにした。

「あのあと戻ってきたら宿直室には誰もいなくて、それでのぞいちゃったんですね」

「どひー、かしこいっ。さすが図書館のひと」

「もう絶対くびですけどね。それで、何があったんですか? やっぱりお金とかでしょうか」

「意味はなかったよ」

「えっと、」

「意味はなかったんだよ。見ても見なくても同じだったっていうか。きっと、その意味はあのおじいさんにしかわからないものだったんだと思う。隠したいからだけじゃないときにも、見ちゃダメってことはあるんだよ。そういうことはあるんだよ」

わかるようなわからないような話に、わたしは、ふうん、と相づちを打った。

「あのね、そんなの知ってるはずだったんだよ。でも忘れてて、だめだったなって」

ヨルさんが思いのほか悲しげに言うものだから、わたしは今度こそ少しは考えてものを言おうとした。

「次から気を付けたら、きっと大丈夫ですよ。わからなくなったらいっしょに考えましょう」

場違いなほど荒廃した図書館。図書館を守り続ける老人。地下室にある──開けても意味のない──ドア。

そして、来るはずだったアルバイト。

ほんとうのことを言うと知りたくないというとうそになるけど、きっと知ったところで後悔こそすれ嬉しくなることはないんだろうな。

ヨルさんがそう言うってことはね。

だから、まあいいのかな。

「けっきょく、心理学の本も置いてきちゃったね」

「燃えちゃったかもしれませんね」

「知識が燃えるのはものがなしいね」

「うん、そうですね」

またひとつ角を曲がった。もう曲がるべき角はない。我が家はすぐそこだった。新しいものはなにもないけれどだからこそ落ち着くこぢんまりとしたアパートの一室。

わたしたちはわずかに活気づいて、雪道を踏みしめる足音の間隔がすこし早くなった。

「さっきアーニャと話したんだけどね」

「それってさっき? どこまで行ってたんですか」

「うんちょっとね。飲み物をせびるついでに聞いたんだけど、ほとんどの本は電子化されているからどこかにデータベースのコピーがあるんじゃないかって」

「ならそれを探すって手もあるわけですね」

「図書館に行ったから賢くなりました」

「図書館に感謝ですね」

ヨルさんと目を合わせてわたしは少し笑った。ヨルさんの胸元ではまだ「アルバイト」のバッヂがまるでわたしの罪を告発するみたいに光っていて、わたしはある種の考えに閉じこもりたくなるのだけれど、それは明日に回すのがいいよと自分に強く言い聞かせた。

まずは、そのために。

でたらめで散らかりっぱなしだけれど、それでもなんとかそんな今日を終わらせるためには、あと少しだけ歩く必要があった。

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