リル・シスターは大丈夫

今日もとってもすてきな歌声。

遠く、礼拝堂から聞こえてくる賛美歌があんまりすてきだったから、わたしはすこしだけ目を閉じて、うっとりとその豊かな響きに聞き惚れていました。

みなさんの信仰が、神への思いが、平和のねがいが、歌のかたちになって広い教会の敷地の反対側にいる、遠くのわたしのもとに届いている。

いいえ、わたしだけじゃない。きっと、誰のもとにだって届くにきまってる。

そう思うだけで、なんだかうれしい気持ちになります。すてきな気持ちになります。みんなひとつなんだな、って。わたしもそのひとりになれてるんだな、なんて、うきうきしてしまうんです。ここが薄暗くてほこりっぽい、底冷えのする倉庫の片隅だなんてことは、ついうっかり忘れてしまいそうになるくらいに。

あっ、そうだ。ううん、いけないいけない。わたしはまだおつとめの途中なんですから。この倉庫の造花の「点検」を終わらせないと。確か、いつかの催事で使う予定があるんだったよね。

こういった教会のちょっとした備品を万全にしておくのも、わたしのようなみならいシスターのおつとめのひとつです。この町では忘れられたものは消えてしまいますから、とっておきたいものは忘れないように、定期的に誰かが目で見てそこにあることを確認する必要があるのです。それだけだとたまに見落としがあるので、できれば直接、手で触れて感触を感じることが推奨されているやり方なんだそうです。

ダンボールのふたを開けて、中に敷き詰められた色とりどりの紙の造花のひとつひとつに、そっと触れていきます。生きた植物のないこの町には、お花は絵に描くか、あるいはこうしてつくりものでしか見ることができません。

倉庫の鉄扉が開く、ぎぎぎという音。それに混じって、がちゃがちゃというか、コトコトというのかな。聞いてすぐにそれと分かるような、特徴的な機械の音。

その音で、ああ、先生がきたんだな、とわかりました。

「や、やあ、クラーラ、仕事を、手伝い、たい」

扉の向こう、廊下の明かりを背に、『清掃員』と刺繍されたつなぎをまとった、初老の小柄な男の人──先生が立っていました。

「ありがとうございます! もし先生がよかったら、いっしょにやりましょう! えへへ」

先生の頭にはちょうどジュースのガラスびんくらいの大きさの機械が刺さっていて、そこから一直線に顔の側面に沿って、縫い目が走っています。先生が何か言ったり、考えたりするのに合わせて赤い光といっしょに、独特の音──まるで歯車ががちゃがちゃ回るような音をさせるのです。だから、扉を開けたのが誰なのか、わたしは気付くことができたというわけなのでした。

「僕の、仕事、は、早く終わった、からさ」

先生はとてもゆっくり途切れとぎれにおはなしします。それは頭の機械のせいなんだと、いつか前に先生から教えてもらいました。あの機械が先生の悪い考えを抑えてくれるんだそうです。でもその代わりに、普通の考えもまきぞえで抑えてしまうらしくて。

これがつぐないなんだ、と先生は言っていました。

先生はいつでもあいまいな、困ったような笑ったような、微妙な表情をしているのですけれど、その瞬間だけは、はっきりと安心したような顔をしたのが強くわたしの印象に残っています。

きっと、先生は何かの罪をつぐなっている途中なんだ、というのがわたしの想像です。だから、先生と呼ばれているのに特に何かを教えることもなく、教会の清掃員の仕事をしているんじゃないかな、なんて。

もちろん、直接聞いたりなんかしません。きっと、いずれ、わたしにもお話してくれる。そう信じていますから。

「さあ先生、がんばりましょうっ!」

「あ、ああ、ああ、そうだね」

先生といっしょに、何十箱とある造花入りのダンボールをひとつひとつ開けて、ていねいにひとつひとつ触れていきます。先生の頭の機械が、かたかた、かたかた、と音を立てるので、まるで自分がからくり仕掛けの機械になったらどんなかんじなんだろうなとか、そんなゆかいな想像をしながら、楽しくおつとめを続けます。

「おおっ、と」

ダンボールが打ちっぱなしのコンクリートの床に落ちる、軽くてちょっと響く音。先生が、ダンボールの一つを取り落として、床に造花をばらまいてしまっていました。

「ご、ごめん、右腕がちょっと、麻痺、していて」

「謝らないでください! 先生は手伝ってくれてるんですから! わたし、片付けておくので次の箱に進んでください!」

このちょっとしたアクシデントに対する感謝の気持ちで胸が温かくなるのを感じました。

「あ、ありがと、う」

ただ単調にこなすだけの作業になっていたこのおつとめ。でも、このアクシデントのおかげで、これが作業ではなく他のだれかへの奉仕なんだということを思い出すことができました。

先生はいつも腰を痛めているので、かがんで造花を集めるのはたいへんです。でも、わたしにはなんでもありません。わたしにできることをわたしなりにすることが、みんなへの奉仕になる。その当たり前の事実を、あらためて感じることができました!

やっぱり、神はわたしたちを見てくださっているんだ。

守ってくださっているんだ──

それからほどなくして、わたしと先生はおつとめを終えて、礼拝堂に向かいます。礼拝はちょうどさっき終わったみたいだったので、そこにいるはずの神父さまに報告をするためです。

「く、クラーラ、さっきは、ありがとう、き君は、とてもや、ややささしい」

礼拝堂まで続く、暗くてひんやりとした廊下を歩きながら、先生はわたしにやわらかい微笑みを向けました。わたしも嬉しくなって、思わずにっこり笑ってしまいます。先生が、帽子の上からわたしの頭をくしゃくしゃとなでました。くすぐったくて、わたしはつい笑い声を上げます。それに合わせるように先生の頭の機械がひときわ激しくちかちかと点滅して、かたかたという音が激しくなって、先生っておもしろいな、だいすきだな、と改めて思うのでした。


そうやっておどけながら礼拝堂に着いたわたしたちは、神父さまをきょろきょろと探します。でも、神父さまの姿は見当たりません。顔なじみの信徒の方に聞いてみると、どうやらお部屋に帰られたとのことでした。

こういうときは、神父さまがお忙しいときです。こういう時に報告は必要ないということになっています。わたしもみならいではありますが、知っています。だから、今日のお仕事はこれでおしまい。

ああ、今日も楽しかったな。

わたしは、うん、とのびをしました。

開け放された扉から、信徒のみなさんがぞろぞろと帰ってゆくのが見えます。

夜の町に灯る、ひとびとの生活の明かり。降り積もった雪が、その光をぼうっと浮き上がらせていて、星空がもうひとつあるみたいに、とてもきれいで。

これがわたしの町。

これがわたしの日常。

だいすきな毎日。

だいすきなものは裏切らない。

わたしがこっそりみつけた、この世界の法則ルール

そういうこともあって、わたしは全身全霊で、すべてをだいすきでいるのです。

神父さまは言っていました。この町には試練が与えられている、と。

いつか試練を耐え抜き、罪を償い終えたとき、わたしたちは神のお側に行けるのだと。

いつまで耐えればいいのか、わたしには見当もつきません。

でも、それがどんなに先のことになったとしても、ぜんぜんつらくないな、と思います。

ぜんぜんだいじょうぶ。わたしは、だいじょうぶ。


思い思いの生活に戻ってゆく信徒さんたち。開け放たれた扉越しに、その様子をぼんやりと眺めていると、人の流れに逆らうように教会に近づいてくる人影があるみたいで、ちょっと目を細めてよく見てみることにしました。もしかすると、忘れ物をした信徒の方かもしれません。

わたしは実はそんなに目がよくないので、お行儀が悪いのですが、遠くを見るときはついこうなってしまうのです。めがねがあったらもう少しよくなるのでしょうか?

歩いてくるのは、わたしよりもふたまわりは年上の女のひとでした。背筋をぴんと伸ばしたそのきれいな歩き方には、どことなく見覚えがありました。

「ぱ、パシフィフィ、フィカだ」

パシフィカ──そう、パシフィカさん!

先生のつぶやきをきっかけに、思い出しました。そう、あれはパシフィカという名前の幽霊。教会が広める教えを受け入れられない幽霊たちのひとり。その中でも、特に力があると言われていて、教会の外のお友達の少ないわたしでも、名前だけはよく知っています。

教会に用があるのでしょうか。だとしたらどんなお用事でしょうか。なにか、わるいことが起きるのでしょうか。

わたしの不安を感じ取ったのか、先生がわたしの背中に手を当ててくれました。その感触で、わたしは少しだけ落ち着きを取り戻して、「ありがとうございます」お礼を言ってパシフィカさんに視線を戻すと、大柄な男性が駆け寄って、なにごとかたずねているようでした。

そうです、守衛さんです。普段、教会にやってくるのは顔なじみの信徒のみなさん。だから普段はあまり仕事がないのですが、教会にはやさしい守衛さんがいるのです。だいじょうぶ、きっとなんとかしてくれます。

そう自分に言い聞かせてはみるのですが、それでもやっぱり不安はぬぐえず、守衛さんと会話するパシフィカさんから目を離すことができません。

守衛さんは会話を中断して、辺りをきょろきょろと見回します。そして、教会の中から眺めるわたしの姿をみつけたのでしょう、わたしに向かって手招きをします。

「な、なんでしょうっ」

急いで駆け寄ってさっそく用件をたずねるわたしですが、緊張で、思わず声が裏返ってしまいました。パシフィカさんは、ぱっちりとした形のよい目をまっすぐわたしに向けています。

わぁ、長いまつげ。すごく大人っぽい。

ほんとうのおとなよりは若いけれど、でも、ふしぎと大人より大人っぽいような、そういう雰囲気のあるひと。

改めて近くで見ても、やっぱりきれいなひとです。彼女も信仰を受け入れてくれたなら、毎日でも後をついてまわるのに。いっしょに信徒さんのおうちを回ったり、お茶会の準備を二人でしたり、倉庫の整理もなんかも──

「おう、クラーラちゃん。ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだよ」

守衛さんの右頬にはななめに大きな傷跡が走っていて、お話するたびにそれがもう一つの口みたいに動きます。「なに、難しいことじゃあねえ」

わたしがこくん、とうなずくと、守衛さんは赤い顔をくしゃくしゃにしてありがとうな、と言って続けます。

「嬢ちゃんが、神父に会いたいと言ってる。しかし、俺はここを動けねぇ。するってぇと、クラーラちゃんが神父さまのとこまで案内してくれたら助かるんだ。どうだい」

「はい、もちろんです! パシフィカさん、本日はようこそ教会までお越しくださいました! みならいシスターの身分ではございますが! わたくしクラーラがご案内します!」

先ほどは不安でかげっていた気持ちは、すっかり晴れ渡っていました。だって、神父さまの教えを拒んでいたひとが直接神父さまに会いたがっているんですから。きっと、いいお話です。

「あら、ありがとう。クラーラ。お噂はかねがね」

わたしが『そそう』をしたせいで教会の印象が悪くなってしまうなんて、ぜったいに避けなければいけませんから、わたしは大きく息を吸い込んで、気合いを入れます。

ちょっと緊張はするけれど、先生だってついてくれています。だから──

「ほぇ?」

後ろにいるはずの先生でしたが、いつの間にか、影も形もありません。べつのお仕事があるのを思い出したのでしょうか。

「ほぇ、ね」パシフィカさんはぽつりとつぶやいてから、「いいえなんでもない。案内、おねがいするわね。私、ここ、あんまり来ないから不案内なの」と、わたしに案内をうながします。

「はわわ、すみません、ぼうっとしていて」

「……ううん、全然いいのよ、おねがいね」

そう言って、パシフィカさんはにっこりと笑ってくれました。

わたしもにっこりと笑い返して、今度こそ道案内を始めます。

ふんわりと、なんだかいいにおいがしました。そっか、きっとパシフィカさんのにおいです。

教会の教えには背いているけれど、とってもすてきで、やさしいひとみたい。

ほら、ぜんぜん大丈夫です。

ぜんぜんだいじょうぶ。わたしは、だいじょうぶ。


神父さまのお部屋のドアを見つめて、どれくらいの時間が経ったでしょうか。

お話の内容を盗み聞きしようとか、そういうことはありません。そもそも、神父様のお部屋のドアはとびきり分厚いので、耳をぴったりくっつけたとしても中の音が聞こえるかどうかは、ちょっとわかりません。

わたしは廊下を挟んだドアの反対側の壁に背中を預けて、床に腰を降ろしていました。

床は氷でできてるんじゃないかというほど冷たくて、座り込んだ最初は後悔しこそすれ、今は感覚もなくなって冷たいとも感じなくなりました。

わたしがなぜこうしているかというと、それには理由があります。パシフィカさんの帰りのご案内です。神父さまのお部屋は教会の中でも奥まったところにあるので、いまパシフィカさんが教会と仲直りをしておうちへ帰る時にも道案内が必要でしょう。わたしがいなければ、神父さまが道案内をすることになります。神父さまはお優しいので嫌な顔ひとつせず案内なさるでしょうが、神父さまより暇なわたしがそれを引き受ければ、きっと役に立てるんじゃないかなって、そう思ったのです。

わたしでも、神父さまの、お役に。

誰もいない廊下に、ひゅう、と風が吹き抜けて、わたしは思わず身をちぢめます。お二人は、何をお話ししているのでしょうか。もうずいぶんと長い時間が経った気がします。脱いだ帽子を胸の前でぎゅっと抱えて、目を閉じました。

そのまま、ちょっと眠ってしまったのかもしれません。

ばん、という大きな音に、わたしは飛び上がりました。「あんた、絶対に後悔することになるわよ!」パシフィカさんの声。何がなんだかわからなくて混乱しながら立ち上がると、後ろ手に神父さまの部屋のドアを閉めたパシフィカさんが、怒りの形相で立っています。

「出口ってこっち⁉」パシフィカさんが叫ぶみたいに私にたずねます。

「いえ、逆です、こっちです」

「あっそう!」

わたしの前を横切ってつかつかと歩いてゆくパシフィカさんの背中、それから閉まったきりの扉、そのふたつを交互に眺めて、そうだ、と、わたしは自分の目的を思い出しました。早足で歩くパシフィカさんに、走って追いつきます。

「何よ⁉ あんたらはまだなんか文句あるっていうの⁉」

「ち、ちがいます」

ああ、このひとは怒っているんだな、と改めて思いました。へんな言い方なんですけど、新鮮だったのです。

「じゃあなに」

教会の関係者のみなさんは、みんな優しくていつも笑顔なので、こうして怒りをぶつけるような場面は、あまり見ないから。

「出口までご案内します」

「あっそう」

ご案内するとは言ったものの、パシフィカさんはだいたい道を覚えているみたいで、迷いなくどんどん歩いてゆきます。

「あんな頭おかしいボスについていこうって、あなたはどんな神経してるわけ」

パシフィカさんのほとんどつぶやくみたいな低いことばが、わたしに向けられたものだと気付くのに、少し時間がかかりました。

「……神父さまは、聡明な方です」

「じゃああんたも頭がおかしいのよ」

「神父さまの何がいけないっていうんですか!」

わたしの前を歩いていたパシフィカさんが、くるりとこちらを向きました。

「新入りの子に会わせてすらくれないのよ? そんなに新しい信徒が欲しいってわけ? 教会の中しか見せないであることないこと吹き込んで洗脳する気まんまんじゃない! ケガでもしてないでしょうね⁉」

「すみません、何をおっしゃってるのか、クラーラはわかりません」

パシフィカさんが、ぽかん、と口を開けて、すこしの間がありました。

「……知らないの? 本当に知らないのよね? 新しい幽霊。どこかに隠れてたとか閉じ込められてたんじゃない、よそからやってきたんだか新しく生まれたんだか分からないけど……聞かされてないのね?」

そんなお話は知りません。幽霊の数は決まりきっていて、それが増えるなんてこと考えたことすらありませんでした。少しびっくりしたけれど、わたしはぜんぜん大丈夫です。だって、

「神父さまがわたしに聞かせないというご判断をしたのなら、きっとそれには理由があるはずですから」

わたしの考えと、神父さまの考え、どちらが大切かといったら、それはもう決まり切っています。

「それであんたがいいなら、いいわ」

パシフィカさんは薄く笑って言いました。わかってもらえてわたしも安心です。パシフィカさんは表情とはうらはらに、不機嫌そうな、いえ、頭痛を我慢するときみたいに低く唸って、それからわたしに背を向けて歩き出します。うん、ちゃんと出口の方です。その後をついてわたしも歩きます。だって、わたしは道案内をすると決めたのですから。

「これは私だけの問題じゃないの」

歩きながら、パシフィカさんが話します。まだ怒っているのかと思って思わず身を縮めたわたしですが、どうやら怒ってはいないようです。一体、何の問題なんでしょう。わからなくて、わたしは言葉に詰まってしまいます。

「あの部屋から出てきてくれたあの子に、せっかくひとつでもなにかあげられると思ったのに」わたしの返事を待たずに、パシフィカさんは続けます。そう、こういうのは知っています。こういうとき、人はただ話を聞いて欲しいのです。誰かの悩みや打ち明けられない感情をただ受け止めるのもシスターのつとめですから、わたしは黙って聞き入ります。

「あの子は笑ってくれたの、がんばろうって思ったの」

あの子、というのが誰なのかわからないけれど、パシフィカさんはそのひとのために頑張っていたのだということがわかります。教会の外の方でも、そういう感情を抱くことはあるみたいでした。

「あの子よりこの場所の方が、よっぽど臭い」

パシフィカさんが話し終えたときには、わたしたちは礼拝堂の片隅に出てきていて、道案内はもう必要なさそうでした。

「案内ありがとうね、あと神父に死ねって伝えて」

「そ、そんなこと言えません!」

「そうよね。じゃあ、ご機嫌よう」

去って行くパシフィカさんの背中。いろんなことが一度にあった混乱と、それが終わった安心とで、信徒席に腰掛けて、ふうとひとつ息を吐きました。すると、耳慣れたいつもの機械音が、「先生」の音がします。

「や、やややあ、クラーラ、大丈夫だだだったかい⁉ ら、ららららららんぼうなことは」

「……大丈夫です。先生。先生は、新しい幽霊の話、ごぞんじでしたか」

先生の頭の機械が、ひときわ大きな音を上げます。

「し、知っていたとも」

「なぜ、神父さまは、パシフィカさんに会わせてあげなかったんでしょうか」

「それははわわからないよ、ききっとま、守っているんだとおおおもう、わ悪い影響をう、う受けないように」

そっか。そういうことだったんだ。

神父さまはその新しい幽霊さんを守ろうとしているんです。流石はお優しい神父さまです。きっと優しすぎてパシフィカさんからも守ろうとしてしまったに違いありません。誰がそれを責めることができるでしょうか。

「すごいです! 先生ってすごい! 本当にすごい!」

さすがは「先生」と呼ばれているだけあって、この人はほんとうに賢いんだ、そんな人が身近にいて嬉しいな、という気持ちで胸がいっぱいになります。

「でも先生、パシフィカさんは本気で、誰かのために頑張っていたみたいなんです。神父さまは賢いのに、それはわからなかったんでしょうか」

「う、うう、うん、それは、難しいな、ち直接きいて、みるしかない」

「神父さまに?」

先生が「そう」と答えるその声に半分くらにかぶって、

「私が、どうかしたかね」

低く威厳のある、落ち着いた声がしました。

顔が、喉の奥が、かっと熱くなります。

さきほどパシフィカさんと一緒に出てきた通用口から、歩いてくる長身の男性。

神父さま。

その言葉をわたしは心の中で言ったのか、ほんとうに口で言ったのか、わたしにはわかりませんでした。


どうした、クラーラ。何か問題でもあったのかな。

神父さまの声に、わたしは我に返ります。

「倉庫の巡回、ありがとう。何か、欠けている備品でもあったのか……それとも、先生が何か?」

「いえ、問題があるわけじゃないんです……ただ、」

「ち、ちち違います神父さま、わたくしは、なななにも……ただこの子がき、教会に疑いの、疑問を、ぎぎぎ、ぎ」

先生の頭の機械はこの上なく激しく音を立てます。ランプの点滅ももう見えないほどに早くて、ほとんどつきっぱなしに近い状態です。

「そうなのかい、クラーラ」

先生から視線を戻すと、神父さまの青い瞳が私を射貫いていました。神父さまの前で、とても緊張している一方で、とても誇らしい気分で、その落差に頭がくらくらします。そう、きっと裸で雪の降るお外に出て、そこでとびきり熱いシャワーを浴びたらこんな気持ちになるかもしれません。そんな限界まで張り詰めた心地よさの中にわたしはいました。

「あの、パシフィカさんが来て、新しい幽霊さんに会わせるのを、断った、んですよね」

ああ、そのことか。神父さまが軽く微笑みます。

「いいかい、クラーラ」

う。いつもの感覚に、わたしは傍から見たらきっとわからないくらいわずかに内股になります。おなかの下の方からくる感覚に対応するためです。気を抜いたら、その、出てしまいそうで、怖くって。

「彼女は神に仇なす者だ。平気で暴力に訴え、欲望のままに生きるけだものだ。そして何よりも悪いのが、他人を自ら同じ道へ引きずり込もうとすることだ。きっと、心のどこかで罪悪感があるのだと私は思うよ。だから、道連れを欲しがるんだ」

神父さまはわたしの目をしっかり見て、まるで歌うみたいな美しい声で、正しいお考えをわたしに説いてくれます。心の中のもやもやがぜんぶ溶けて消えてしまうような、至福のときです。

「罪をふたたび生み出し、約束の時を永遠に先延ばししてしまうものだ。彼女は彼女のせいで行くべきところへ行けなくなる。それが、彼女にとって幸福かね?」

わたしが感動すればするほど、おなかの感覚は強くなっていきます。足が、がくがくと震え始めるのがわかります。全身がじんわりと汗ばんでくるのがわかります。

その──はっきり言います。わたし、クラーラは神父さまとこうして一対一でお話をすると、うんちがしたくなります。

「その前に手を差し伸べるのは、我々の、いや、私の使命だ。クラーラ、分かってくれるだろう」

「は、はい、神父さま。ありがとうございます。幽霊さんのため、なんですよね」

「そうだ。他に、不安に思うことはあるかな。あればぜひ聞かせてくれ」

少し便意の波が退いて、ほんのちょっと余裕の出たわたしは、せっかくのことなので、ひとつ質問をすることにしました。

「あのひとたちにも、教会の考えの素晴らしさを、教えてあげられたら、いいな、と、思いました」

そうか、それはなぜだろう。神父さまが続きをうながします。

「パシフィカさんが『部屋から出たあの子に、何かあげようと思ったのに』と言っていました。誰かに奉仕する気持ちがあるなら、他の善い行いも教えてあげれば」

「あの女が、そう言ったのか」

「はい、さきほど、ご案内したときに」

少しおとなしくなっていた先生の機械が、ふたたび激しく音を立てました。「あ、」先生が機械を手で押さえますが、音は小さくなりません。

「先生」

「その、は、は、はい」

「どうして先に言わなかった? 報告の必要は無いと考えた、その根拠は」

「そんな、ことき、聞いてなくて、そもそも」

先生の言葉を、神父さまの大声が遮ります。「話していただろう」

「え、ででも」先生の返事をさらに遮って神父さまが「それくらい聞き取ることも出来ないからお前は──!」

「し、神父さま!」

先生の声も、神父さまに負けじと大きくなります。先生の頭の上の機械のランプが青く点滅して、「あ、この色は見たことがないな」と、目の前の光景とぜんぜん関係のないことが頭をよぎりました。

「職務に不誠実なのは変わらないんだな⁉ え? 責務を果たさず欲望にふけって、お前はこうなったのではなかったか⁉」

神父さまの声は低くてよく響くので、礼拝堂全体がびりびりと震えているようでした。

「し、神父さま、ややめて、やめてください、もう、や、やめて」

先生の大きな体が、ばたりと床に倒れます。気を失ってしまったのかと心配になりましたが、どうやら、床につっぷして泣いているようです。大好きな先生が泣いている姿はとても胸が痛んで、でも泣かせたのは神父さまだから、それはきっと正しいはずで。わたしはどうしたらいいのかわからず、ただ立ち尽くすことしかできません。そういえばいつのまにか、便意はすっかり消えています。

「そうか、遂に来るべき時が来たようだな……教えてくれてありがとう、クラーラ」

神父さまは表情を変えずに言いました。懐から携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけます。すると、守衛さんがばたばたと礼拝堂に駆け込んできました。

「神父さま、あっしは構いませんが、いつまで厳戒態勢でいりゃいいんで?」

無表情の神父さまと、ちょっと混乱した顔の守衛さんを交互に見比べますが、もちろん、何が起きているのか、ぜんぜんわかりません。

「私がよいと言うまでだ」

「……承知しやした」

「ユゼフ、お前に任せる」

「はっ、お任せ下さい。若い衆も呼んでありますんで、人っ子一人、入れやしません」

「早いな。流石の手並みだ」

「へへっ。……ただ、雁首は揃うかと思うんですが。連中は、その、お利口じゃないモンですから、『ごほうび』も、必要だって、こう言うに違いねえかと」

「心得ているさ。必ず用意しておくと伝えておけ」

「ありがてえ!」守衛さんが大声を出すと、先生が、びくり、と反応します。守衛さんは、まじまじと先生の丸まった背中を見つめましたが、神父さまに視線を戻します。

「では、私は仕事がある。問題が起きたら」

「『三コールするだけ、後でかけ直す』でございやすね」

「そうだ」

礼拝堂を出て行く神父さまの背中を、わたしはぽかんと見送ることしかできません。

礼拝堂には、わたしと、守衛さんと、それから泣き崩れる先生だけが残されました。なんだか頭が冷やしたくなって、わたしは教会の外に出て、いつもの町並みをぼうっと眺めます。

わたしの町。大好きな町。

大好きは裏切らない。

「おお、クラーラちゃん、どうしたよ、変な顔して」

急に声をかけられて、「ほえ?」声が出てしまいました。

「ばっか、それじゃあクラーラちゃんの顔が不細工みたいじゃねえか」

「だはははは、すまんすまん、不細工ってのはこいつみてえな顔のことを言うんだよ、なぁ?」

「いひひひひ、まぁおれぁ前歯は無いけどなぁ、顔は男前だって評判だぜ?」

たまに教会にやってくる、ちょっと怖い雰囲気、の男の人がふたり。どちらも守衛さんと雰囲気が似ていました。たぶん、信徒さんだと思います。

わたしの名前を知ってくれている。そして、こうして親しげに話しかけてくれている。

「あはは、お二人とも、とっても面白い! すてきです!」

いいな、大好きだな、と思いました。

「気をつけろよクラーラちゃん。なんか最近物騒だからなぁ」

「なぁに、俺が守ってやるさ! へへっ」

心の中が、暖かいもので満たされるのを感じます。

しおれてしまっていた勇気が、希望が、もういちど息を吹き返すのを感じました。

わたしにもできることが、きっとあります。神父さまに喜んで頂けるようななにかが。

「クラーラちゃん? だいじょぶか?」

「ええ、ぜんぜん──だいじょうぶです」

大丈夫。わたしはだいじょうぶ。

もう一度、町の景色に目をやります。大好きなわたしの町。そこに含まれるものすべても、きっと大好き。

そう、パシフィカさんも。

その瞬間、いい考えがひらめいて、わたしは走り出しました。

「おーい、どこ行くんだ⁉」

もう立ち止まるのももどかしくて、走りながらお返事します。

「パシフィカさんを説得してきます!」

雪に足を取られて何回つまずいても、ぜんぜん気になりません。

途中、道で出会った信徒さんにパシフィカさんのお家を教えてもらって。

そしてわたしはパシフィカさんの家の呼び鈴を鳴らしたのでした。

心の中でつぶやきます。

大丈夫。わたしはだいじょうぶ。

ぜったい。

このサイトは、サービスの向上を図るため、Cookie を使用しています。サイトの利用を続けるには、同意が必要です。詳しくはCookie ポリシーをご覧ください。

同意する